甘くて優しい夢は終わったはずだ。
なのに哀が思い出すのは最後に見たコナンの表情だ。あんなに切望していた解毒剤を渡しても浮かない顔をしていたコナンを、どこかで期待してしまう自分を嫌悪した。馬鹿みたいだ。
後ろめたさから小学校に通うのも苦痛になってズル休みをして二日。極力、地下の研究室には入らずに一日中自室のベッドの上で過ごした。
「哀君」
博士がドアをノックした。
初めの頃こそ哀を気遣って食事を誘ったり様子を見に来たりしたものだが、哀も子供ではないのでお腹が空けば勝手に食べられるし、外に出たければ勝手に出るので、今となっては博士も滅多なことでは声をかけてこなくなった。それでも心配してくれている事は肌に沁みて感じる。罪悪感が伴うけれど、哀にはその愛情をどうやって返していいのか分からないままだ。
「…なに」
「光彦君が遊びに来とるんじゃ。顔を見せてはどうじゃね?」
少年探偵団のみんなではなく、光彦一人が訊ねてくることに引っかかった。
哀は崩れた髪の毛を手で直し、リビングに入る。光彦は緊張した面持ちでソファーの前に突っ立っていた。
「円谷君、どうしたの」
「あ、灰原さん。…体調は、その、大丈夫ですか」
そういえば風邪だと嘘をついて休んでいる事を哀は思い出す。きっとクラスメイトには病弱だと思われているのだろう。哀は何も答えないまま、光彦にソファーに座るように促すと、光彦は恐る恐る腰をかけた。哀も光彦から約一人分の間を空けてソファーに座る。
「あの…」
「何?」
「本当は風邪じゃない…とか」
疑うように視線を寄越す光彦に、何故か笑みが漏れてしまった。
「そうかもね」
「やっぱり…」
光彦の納得したようなため息に、哀は首をかしげる。
「どういう事?」
「コナン君が言ってたんです」
その固有名詞に、明らかに哀は眉をしかめた。機嫌を損ねたと思ったのか、光彦はそそくさと鞄から小さな小瓶を取り出した。
「これ、コナン君が灰原さんに渡してくれって。コナン君、足を骨折していて、自分では届けられないからって」
渡された小瓶の中身を見て、哀は驚愕した。見覚えのある瓶だと思ったら、これは先日コナンに渡したものだ。瓶を握る手が震える。あの日、決死の覚悟でコナンに渡したというのに、ふざけるのも大概にして欲しい。
「コナン君、風邪は治ったみたいですよ。灰原さんがその薬を渡していたんですよね?」
光彦はこの薬が風邪薬の残りか何かと勘違いしているみたいだった。
叫び出したい衝動を抑え、哀は静かに立ち上がった。光彦はきょとんとした顔で哀を見上げる。
「…ありがとう、円谷君」
この薬を突き返したい。でもそれでは解決にはならない。光彦に迷惑をかけるわけにもいかない。
哀は静かに光彦を見た。もともと小学生ではないコナンと哀の存在によって、光彦だけではなく元太や歩美にも影響を与えてしまったはずだった。彼らなりの成長のスピードを守らずに、子供のふりもしてあげられなかった。明らかに他のクラスメイトとは雰囲気の違う哀にも分け隔てなく仲良くしてくれ、今まで哀が感じたこともないような温かい居場所を作ってくれていたというのに。
「灰原さん。コナン君と何かあったんですか」
三人の中でも特に光彦の着眼点には時々目を見張るものがある。哀は誤魔化すように微笑んだ。
「少し喧嘩しただけよ。大丈夫」
「ならいいんですけれど。コナン君、灰原さんのことを気にしていました。今週中には学校に行くみたいですし、灰原さんも早く来てくださいね」
そう言って光彦も立ち上がり、阿笠邸を出て行った。
手に握った小瓶を見る。中にはカプセルが一つ。大声で泣き出したいのに、こんな時に涙も出ない。
二日後、ようやく登校すると、すでにコナンが教室にいた。足にギブスを巻いたままだというのに、哀の姿を見た瞬間立ち上がった。
「灰原!」
逃げそうになった哀に絶妙なタイミングで声をかける。哀はしぶしぶと教室に入り、コナンの隣の席についた。
「久しぶりだな」
「…あなた、どういうつもり?」
相変わらずのコナンにイライラが募る。彼は長期で欠席したのを利用して解毒剤を服用するものだとばかり思っていたのに、それは返却され、再び小学校に戻ってくるとは、呆れも通り越してしまった。これでは元太達の傷を深く抉るだけだ。
「円谷君を使って、解毒剤を返しに来るなんて。気が狂いでもしたの?」
「そうかもな」
コナンがふと笑った。
周りではクラスメイト達が小学一年生らしい会話で盛り上がっている。ここではゆっくり話せないからと、コナンは哀の手首を掴んで、松葉杖をつきながら歩き出した。
「…どこ行くの」
「いいからついてこい」
「…私を掴まなくても、逃げたりしないわ」
コナンの手の平が触れている手首が熱い。そんな哀をお構いなしに、コナンは校舎の端の階段の踊り場まで器用に歩き、ようやく哀を離した。
立ち止まり、コナンはまっすぐ哀を見る。
「なんで突然見舞いに来なくなったんだよ」
「…図々しいわね。頻繁に通えるほど私も暇じゃなかったわ」
拗ねるようなコナンに、思わず皮肉を交えてしまう。コナンは仏頂面のままだ。
「でも俺が目を覚ますまで通ってくれてたって蘭が言ってた」
「………」
「なぁ灰原。解毒剤、本当はお前の分はないんだろ?」
―――図星だった。
あの病室でコナンに解毒剤を渡した時、コナンは訊いてきたのだ。おまえはどうするんだ、と。あの時から哀の気持ちは固まっていた。哀は元には戻らない。解毒剤は一つしか作っていなかった。
だけどそれが逃げのように感じて、そしてコナンへの想いを断ちたくて、思わず嘘をついた。自分の分は家に置いたままだ、と。
なのにその嘘を見破られ、決死の思いも砕かれ、散々だ。
「…私の事なんて気にしないでよ」
「え?」
「私の事なんてどうでもいいじゃない! あなたが元に戻ればそれで終わりよ。もうあなたに迷惑なんてかけるつもりもないし、あなたの人生を邪魔しないわ。どうしても償えっていうなら償うけれど、それは私が元に戻ろうと戻るまいと関係ない話だわ」
まくしたてるように言葉が口から溢れ出た。気付けば涙で頬が濡れた。泣きたいときに泣けないのに、コナンの前で涙を流すなんて失態だ。
コナンはポカンとした顔で哀を見つめていたが、哀が言葉を途切らせると、ふっと笑みを漏らして哀に近づいた。
「邪魔しないなんて言うなよ」
コナンは哀の癖がかった髪の毛に触れ、そのまま哀を抱きしめる。松葉杖が音を立てて床に倒れた。哀は何が起こったか分からないまま、されるがままにコナンに身を預けた。
「あの薬をおまえから渡されて考えたんだ。俺はコナンの人生も捨てられないんだよ」
「…でも、あなたには待っている人がいるわ」
誰よりも優しい新一の幼馴染を思う。コナンが元に戻らないなんてあってはならないことだ。
「そうだな。でも、コナンとしてじゃないと守れない奴もいる」
哀を抱きしめる腕の強さを感じて、哀はようやく抱きしめられている事を認識した。ありえないと思っていた現実が今ここにあって、哀は困惑を隠せない。その腕から逃れようとしても、その腕の力には敵わない。
コナンが眠っている時はただ傍でその寝顔を見るだけで幸せだったのに。
「おまえのことだよ」
耳元でささやかれて、哀は再び涙を流す。
「そんなこと言われたって…。あの子はどうするの」
「蘭には言ったよ。コナンとして守るって。たぶんあいつは俺の事に気付いているけれど、どうすることもできねーし」
「だから、解毒剤を飲みなさいよ。あなたのその感情は一時的な気の迷いだわ。一生後悔する」
コナンの腕の力が弱まったタイミングで、哀はコナンから離れた。顔が熱い。赤くなっているであろう頬を隠すように哀はしゃがみ込んで松葉杖を拾い、支えを失ってバランスを失いかけたコナンに渡す。それを受け取りながらコナンは考え込むように視線を落とした。
「でもきっと、工藤新一に戻っても後悔するんだ」
コナンの弱々しい声が踊り場に小さく響く。
「せっかく解毒剤のデータを手に入れて、研究までしてくれたのに、ごめんな」
それを先に言われたら、もう怒ることもできないではないか。コナンはとてもずるい。哀は涙を手で拭った。
「私がどんな気持ちで研究したと思ってるの…」
「…ごめん」
「あなたが元に戻れば、私の役目はそれで終わると思っていたのに」
「…本当にごめん。終わりだなんて言うな」
コナンは再び哀の髪の毛に触れ、そのまま額を哀のそれにくっつけた。コナンの長い睫毛が間近に見えて、こんな時にもドキドキした。
「これからもよろしくな」
哀の居場所はここにしかない。それはコナンがいなくても成り立つものだったけれど、コナンがいなければ色を失っていた。この数日間コナンがいないことでそれを身に沁みて感じた。
まるで夢のような、信じられない事が起こってしまい、哀は自分に言い聞かせる。それでも自分はこの罪を忘れない。彼から工藤新一の人生を奪ってしまった事に変わりはないのだ。
遠くでチャイムの音が聞こえた。始業の時間だ。とうに登校しているであろう元太達は、ランドセルを置いたまま姿を消したコナンと哀に首をかしげているかもしれない。
「そろそろ教室に戻ろう」
コナンは再び哀の手を握る。もう哀から離すこともしなかった。
廊下を歩けば、いつものように遅刻間際の子供達が慌ただしく廊下を走り、教師の怒号が飛んでいる。平和な日常に哀は思わず小さく笑ってしまった。
例えこの先離れる事があっても、この手の平の体温を忘れることはきっとないだろう。それでもきっといつだって歩き出せる。自分の足で、自分の未来を。
最後まで読んで下さり、ありがとうございました!
蘭ちゃんに正体がばれているかも、という設定は、私も書きながらドキドキしてしまいました。今まであまり考えてこなかった設定だったので。
あえてすっきりしない終わり方ですが、二人の未来はこれから、ということで。
(2015.1.11)