Gotta Go My Own Way

 阿笠邸でそのコール音が鳴った時、妙な胸騒ぎがしたのだ。

「もしもし阿笠じゃが…。おお、蘭君」

 受話器を取った博士の声に、思わず哀の身が怯んだ。
 風呂から上がり、髪の毛をバスタオルで拭きながらリビングに入った時だった。電話を終えた博士が受話器を置き、哀に振り向く。

「おお、哀君。ちょうどよかった。新一君が目を覚ましたそうじゃ」
「そう……」

 哀は湿ったバスタオルをぎゅっと握りしめる。
 意識なんて取り戻さなければよかったのに。心の中で毒づいてしまい、その悪意ある感情に対して哀は自己嫌悪に陥った。
 ―――コナンが入院する事態を引き起こしてしまったのは、全て自分のせいなのに。

「明日も病院に行くんじゃろ?」
「…考えておくわ」

 コナンが入院をしてから三日。学校帰りに欠かさず見舞いに行く哀を心配する博士に曖昧に答え、湿った髪の毛をそのままに地下室への階段を下りた。博士の気遣いに応えられるほどの余裕はない。 
 哀用に与えられた研究室に入り、パソコンを開く。もう解毒剤は出来ている。



 FBIを交えての組織との戦いは過激なものだった。
 事情を知るFBIと共に立てた作戦通りに、哀とコナンは組織の情報の中枢へと抜けた。博士から託せられた武器を使い、それこそ命を賭けてでも奪いたいものがあった。新一の身体を小さくしたアポトキシン4869のデータだ。
 組織の大元となる場所を突き止める前から解毒剤の研究はしていた。それでもあと一歩というところで、やはりデータ不足を否めなかった。コナンを工藤新一に戻す為にも、どうしてもそのデータが欲しかった。きっとコナンも同様だ。
 組織壊滅に関してはFBIや日本警察に任せられるけれど、データまで証拠品として奪われたらたまったものではない。
 情報の中枢に侵入し、媒体に情報を移すまではよかった。

「灰原…!」

 データを手に入れて、気が緩んでいたのかもしれない。記憶した組織内の地図を頼りに出口へと向かっている途中、不意にコナンの切羽詰まった声が響いた。
 振り向いたのと同時に銃声が響いた。一瞬何が起こったか分からなかった。
 人の気配を読む能力は、こんな時に限って役に立たない。

「灰原! 何ぼーっとしてるんだ!」

 幸い銃弾は二人の身体には触れず、コンクリートの壁に穴を作った。敵がすぐ傍にいる。流れ弾に当たるかもしれない。組織にいた頃もただ研究ばかりしていた哀はそもそも戦闘慣れなんてしていないのだ。足がすくんでしまった哀に、コナンが駆け寄った。
 また銃声が響く。コナンは持ち前の反射力でそれを回避した。しかし足場が悪かった。すぐそこにあった階段をそのまま転げ落ちて行ったのだ。

「江戸川君…!」

 このタイミングでFBIが来ていなかったら、二人の命はなかったかもしれない。
 自分達は助けられたのだ。だから哀は必死に解毒剤の研究をした。そのために生き長らえた命だ。



 蘭からの電話があった翌日はいつもと同じように学校に行った。

「コナン君、今日もお休みだね…」
「まだ熱が下がらないんでしょうか…」
「そろそろ見舞いに行ってやろーぜ」

 不安そうな表情を見せる少年探偵団に、哀は微笑んだ。

「うつると大変だから、やめておきましょう」

 彼らはコナンの状況を知らない。小学校にも知らされていない。
 コナンの保護者である小五郎に対して、目暮警部が例外的に箝口令を敷いたのだ。今回の事件はあまりにも大きすぎて、そしてただの子供であるコナンが介入しているのどう見ても不自然だった。
 まだ目暮警部はコナンの事情を知らない。だけど警部や小五郎が知るのも時間の問題だ。



 そして放課後、哀はランドセルを背負ったまま病院へと向かった。
 毎日のように訪れたはずなのに、足取りが重く感じる。コナンは自分のせいでこうなったのに、この三日間コナンが目を覚まさないのをいい事に、眠るコナンに寄り添ってコナンの寝息を感じていた。
 規則正しい呼吸音に無防備な寝顔。そんな至近距離でコナンを見つめたのは初めての事だった。
 今だけ、今日だけだと思いながら、白いベッドに頭を伏せてコナンの寝顔を眺めていた。その時間が最後の幸せなのだと自分に言い聞かせていた。
 だけどもうその時間も終わってしまった。病室のドアの前で深呼吸をする。柄にもなく緊張した。病室の中に人の気配を感じる。確かにコナンは意識を取り戻している。
 震える手でドアを開けると、

「灰原」

 小説を手に持ったコナンがこっちに顔を向けて、微かに目を細めた。。
 哀は黙ったままドアを閉める。笑顔のコナンに近付くことなんてできない。

「どうしたんだ?」
「…ごめんなさい。私のせいだわ」
「そんなことねーよ。おまえがいなければ中枢には入らなかった。骨折したのは俺のミスだ」

 一方的な二人きりの時間を味わっていながら意識を取り戻さなければいいと思っていたくせに、彼の笑顔を見て安心してしまった。
 よかった。もうこれで彼は大丈夫だ。あとは解毒剤を飲んで元の身体に戻れば、哀の任務は完了だ。

「灰原、こっちに来いよ」

 コナンの右足に巻かれた包帯とギブスが痛々しい。哀はコナンの言葉に引き寄せられるように、一歩一歩ベッドに近付いた。コナンが手を伸ばしたので、思わずその手を取った。
 体温の通った手。
 ―――生きている温度だ。涙で視界が滲んだ。

「怪我はねーんだな?」
「…ないわ」
「よかった…」

 胸を撫で下ろすように息をついたコナンを見て、哀の胸がじりじりと熱くなった。
 よかった、なんて言わないで欲しい。いいわけがあるか。哀のせいでコナンは小学生に逆戻りし、幼馴染と離れることになり、そしてこんな時まで怪我を負ってしまった。哀がいなければないはずだった重荷を背負わせてしまったのに。
 優しくなんかしないで欲しい。

「FBIの人達にも改めて挨拶しないとな」
「その前に、早く治しなさい」

 涙声を隠すようにいつもよりもつっけんどんに哀が言うと、コナンは本当の少年のように無邪気に笑った。
 その笑顔を見て、もうこれ以上自分は幸せに浸れないと思った。中毒になる前に抜け出さなければ。だから、明日には完成した解毒剤を持って来よう。甘くて優しい夢は終わりを遂げるのだ。


(2014.12.21)