ようやく退院できる事となった。その前日、いつものように蘭が見舞いに来て、そして荷物を整理するのを横目に見ていた。
枕の下には小瓶が隠されたままだ。哀はあの日から来ない。少年探偵団も見舞いには来ない。組織に関する事件は世を騒がせており、コナンが介入していることを小学校には黙っているのだと目暮警部から聞いた。確かにテレビをつければ謎に包まれた組織のニュースやその特集が組まれていて、コナンは反射的にテレビを切った。いつもであれば情報を得たいコナンでも、戦いが終わった安堵感に包まれた今は全てを忘れて静かに過ごしたかったのだ。
「でもよかったわ。思ったより早く退院できそうで」
「うん、ありがとう」
「これで元太君達にも会えるわね」
「うん」
蘭の長い黒髪を眺める。工藤新一に戻ったらまずその髪に触れて、そして想いを告げようと思っていた。
なのに頭を占めるのは、解毒剤をコナンに寄越した時の哀の泣きそうな笑顔だ。
「ここ何日か、哀ちゃんが来ていないわね」
…思考が読まれたかと思った。ちょうどコナンが哀のことを考えていた時の蘭の発言に、返事を遅らせてしまった。
「う、うん。そうだね」
「何かあったの?」
「な、なんで…?」
震える声を隠しながら何でもないように顔をあげると、蘭が訝しげにコナンを見た。その表情を見て、コナンは言葉を失った。蘭のその目には見覚えがあったのだ。―――そうだ、コナンが工藤新一だと疑われていた時の表情だ。
「だって哀ちゃん、コナン君が目を覚ますまでは毎日のように来ていたのよ」
コナンは必死になってその言葉の真意を探った。
もし本当に蘭がコナンを疑っているのだとしたら、こんな会話を続けている場合じゃない。なのに、蘭の言葉に再び哀の顔が浮かぶ。
目が覚めた翌日、ごめんなさいと謝罪を述べながら涙ぐんだ哀を思う。自分が目を覚まさない間も見舞いに来てくれていたのは、やはり罪悪感によるものだろうか。哀の負担を更に増やしてしまったことを悔む。この怪我は自分の不注意だというのに。
「…コナン君?」
怪訝に眉をひそめる蘭の声に我に返った。
目の前には蘭がいるのに、頭の中は哀のことでいっぱいで、コナンはただただ蘭をじっと見つめた。
「どうしたの?」
「え、えっと…」
もう組織は潰れたのだ。命を狙われる心配はない。そして解毒剤は手の中にある。
もう十分じゃないか。蘭を待たせるには長い時間だった。ここで正体を打ち明けてもきっと問題ない。今まで何度もそう葛藤してきたじゃないか。そう思うのに。
唇が上手く動かない。
「…ボク、疲れたから少し休むね」
そう言ってベッドの布団の中に潜り込んだ。
身体が小さくなって蘭の家に住む事になって、そして灰原哀が転校してきて正体を明かされて、少年探偵団の仲間たちに連れられて探偵ごっこをさせられているうちに本当の事件に巻き込まれて。そんな日々が頭をよぎっては消えて行く。
早く元の身体に戻りたいなんて思っていたくせに、そんな日常が懐かしくてたまらない。こんなにも江戸川コナンとしての生活に愛着が沸いていたなんて気付かなかった。
布団をかぶっていても蘭の視線が痛い。それを避けるようにコナンは布団の中で目をつぶった。
待ち遠しかった退院も億劫でしかなかった。
松葉杖をつきながらの毛利家の生活は思った以上に不便で、一人になりたくても傍にはいつも蘭がいた。組織壊滅を挟んだ前後の自分がまるで別の人格を持っているようで、不気味にも思った。
退院してから三日経った日曜日の午後。
「コナン君!」
どことなく暗い雰囲気の漂っていた毛利家に、久々に明るい歓声が響いた。
「歩美ちゃん…、元太に、光彦も。どうしたんだ?」
リビングで本を読んでいたコナンに、三人は近寄る。
「どうしたんだ、じゃねーよ。風邪が治ったと思ったら今度は怪我しやがってよー」
…ということになっているらしい。さすがに骨折をした手前、風邪だけで事をおさめるには無理があったらしい。コナンは手に持っていた本をテーブルの上に置いて、元太を見た。
「ごめんごめん。ちょっと色々あってさ。連絡できなくて」
「コナン君はいつもそうですよ! 肝心な事をいつも隠すんです」
光彦の普段より低い声を聞いて、ちくりと胸が痛む。
組織を壊滅して解毒剤を手に入れたら。まずは彼らと別れようと思ったのだ。綺麗に跡形もなくなるように、笑って。なのにこんな再会の仕方をしてしまい、三人のコナンを心配していた様子を見て、黒い影が胸に押しかかった。
「コナン君、大丈夫?」
歩美の声に、コナンははっとなって視線を少し動かす。
「…なぁ、あいつは?」
「え?」
「灰原、来てねーの?」
キッチンで三人の為にジュースとお菓子を準備している蘭に聞こえないように、小声でコナンはつぶやいた。歩美は丸い目をいっそう丸くしたあと、しょんぼりと俯き、
「哀ちゃんも風邪をひいちゃったみたいなの…」
弱々しくつぶやいた。
嘘だ、とコナンは思った。何を企んでやがる。先日見舞いに来た時の哀はランドセルを背負っていた。もしかしたらもう宮野志保に戻ったのだろうか。それにも手続きがいる。彼女がそんなに焦って元に戻るわけがない。
以前から組織からの追手を感じて阿笠邸に引きこもることも多かった哀の欠席は珍しいことでもない。三人もそれに対しては特に不可解には思っていないようだった。
「みんな、来てくれてありがとね」
キッチンからお盆にジュースとお菓子を乗せて、蘭が顔を出した。三人の顔もぱぁっと明るくなる。
「コナン君、みんなが来てくれてよかったね」
テーブルにそれらを置いた後、コナンの隣に膝をついて蘭が微笑んだ。でも目が笑っていない。
「…うん」
どうすればいいんだろう。
一刻も早く元に戻って蘭を安心をさせてやればいいのだろうか。そうすれば誰も泣く事はないだろうか。
何よりも蘭を泣かせたくなかった。この半年間その想いで過ごしてきた。姿が変わっても、誰よりも近くで守ると。
部屋に隠した小瓶を思う。完全に治った時には全てを振りきってあの薬を飲めるのだろうか。目の前でお菓子を世界一幸せそうにほおばる三人の顔を見ながら、この日常を簡単に失えるかどうか不安で仕方がなかった。
子供たちの時間を邪魔しない為か蘭が自室に入り、三人は最近の学校の出来事をコナンに語った。
夕方になり、三人が家に帰ろうと靴を履き始めた時。
「光彦」
元太と歩美がドアの外に出たのを見計らって、コナンは小さく光彦を呼んだ。
「なんでしょう?」
「頼みがあるんだ」
光彦を呼び止めながら、先ほど部屋から持ち出した小瓶の存在をズボンのポケットの中で確かめる。
身体が小さくなり、転校という名目で通い出した小学校の生活も苦痛でしかなかったはずなのに。今日三人に会って、ようやく分かった。自分の中には工藤新一とは別に、江戸川コナンという人格が息づいている。
工藤新一である自分を捨てられるわけがない。だけど、もう江戸川コナンとしての自分を簡単に捨てることも出来なかった。
(2015.1.3)