「解毒剤ができたわ」
消毒の匂いがこもる病室に入ってきたや否や、何の前触れもなく哀が言った。
「本当か?」
本来のコナンであれば飛び付きたいところだが、組織壊滅に参戦して右足を骨折し、他にもいくつか傷跡を残した身体ではそれは容易ではない。ベッドの上で無様に寝転んでいた身体をどうにか痛む片手で起こし、その激痛に顔をゆがめた。
「こんな時に冗談なんて言わないわ」
ベッドのすぐ傍で、小学生のものとは程遠い雰囲気で哀はただ静かにそこに立っている。
「…それにしては早すぎねーか?」
「前からほとんどのデータを解析していたのよ。最終的にアポトキシン4869のデータがなければ成功とは呼べなかったけれど、今までの私の理論は間違っていなかったみたい。完成したわ」
それはコナンが喉から手が出るほど欲しかったものだったはずなのに、静かに単調に話される彼女の言葉に、少しずつ心が冷えていくのを感じた。それを振り払うように、コナンはぎゅっとシーツを握る。
胃のあたりからせり上がってくるこの感情は何だろう。
そんなコナンの態度とはよそに、哀は肩にかけていたポシェットから小瓶を取り出し、コナンの目の前に差し出した。透明な小瓶の中にはカプセルが一つだけ、ちぐはぐさを形にしたようにそこに転がっていた。
何も動じないコナンに、哀はため息をつく。
「…いらないの?」
「え…? い、いや、いる! いります!」
いつもと同じ哀の呆れた低い声に、思わず前乗りになって左手を伸ばし、その瓶を受け取った。
「言っておくけど、服用するのは退院して、その怪我も完治してからよ」
「…一つだけ、なんだな」
白と緑のカプセルは不安定に小瓶の中で転がる。小瓶をじっと見つめれば、そこには自分の瞳さえ映りそうになり、コナンはそれから視線を外し、哀の顔を見た。
これを飲んで自分はどうするんだろう。前から切望していた幼馴染の元へと戻れるはずなのに、心が晴れないのは彼女の行き先が見えないからだと気付いた。
「おまえはどうするんだ?」
その疑問を口にすれば、哀は意外そうにコナンを見て、再び嘆息した。
「心配しなくても、博士の家に戻ればもう一カプセルその薬はあるわ」
いつもと同じはずのその声が、その顔が、今にも消えてしまいそうに思った。痛む身体を無理やり動かし、哀に手を伸ばした。ほんの少し筋肉が収縮するだけで激しい痛みが伴い、コナンは小さくうめく。これまで無表情を保っていた哀が、表情を動かした。
「何してるの? 無理に動かない方がいいわ!」
哀の問いには答えられない。本当に、自分は何をしているんだろう。
哀に小瓶を押し付ける。前から欲しくて欲しくてたまらなかったこのカプセルより、哀のことが気にかかった。だけど胸の中に残るのは、いつも泣かせていた幼馴染だ。真実を見つけることが偽りの中で生きる唯一の自分の道標だったのに、二つの感情の狭間でコナンはひどく混乱した。小瓶を持つ手が震える。
「…工藤君?」
「俺が持ってたらすぐにでも飲んでしまいそうだからさ。おまえが持っていろよ」
そんなの嘘だった。このカプセルがこの手の届く場所にあるだけで葛藤が続いてしまいそうで、それに耐えられなかったのだ。
コナンの震える手を、哀はそっと両手で包んだ。その手の温度は意外なほど温かくて、コナンは目を見開いた。思わず顔を上げると哀が少し困ったような、泣きそうな、なんとも言えない表情で微笑んだ。
「馬鹿ね」
決してその小瓶を受け取ろうとはせず、それをコナンの手ごとベッドの上に戻した。手が離れても哀の手の感触が消えない。
「完治したかどうか分かるのはあなた自身でしょ。その時にはこれを飲んで、元のあなたに戻るのよ」
哀がうつむいてしまったせいで、その前髪で哀の表情は読み取れなかった。いつものように抑揚のない口調の中に、少しの感情が見える。でも気のせいかもしれない。そもそも彼女はそれを望んでいないのかもしれない。
そして、コナンは元の場所へと戻るのだ。そういう運命だったのだ、最初から。
「…もう行くわ」
コナンの手の甲を指でもう一度触れた後、哀はベッドから離れ、病室のドアに手をかけた。ドアの音が無機質に鳴り、一度も振り返らなかった哀の姿が消えた。その途端、病室の温度が下がる。
手には体温で生温かくなった小瓶が握られていて、先ほどと同じカプセルが転がっていた。まるで哀の瞳のようだった。
行くな、とは言えなかった。どうしても。
タイトルは『ハイスクールミュージカル』の劇中歌から頂きました。
(2014.11.22)
追記:読者の方からお言葉を頂き、続編を連載することになりました!(2014.12.8)