――小学五年生・秋――
コナンに抱きしめられた。
国語の授業中、哀は二週間前を思い出す。人気のない廊下の隅の出来事。繋がれた手と、背にまわされた腕。断続的に散る花火のように、鼓動が震えた。
灰原さん、と、反芻を遮るように担任の声が哀を呼んだ。目の前の席にいるクラスメイトの音読が終わったので、次は自分の番という事か。鼓膜にうっすら残る文章を思い出し、哀は平然を装って手に持つ教科書に視線を落とした。
言動に含まれる意味は、教科書に載る文章のように明確ではない。あの日から、コナンは哀に姿を見せなくなった。
昼休みになると、教室内は鮮やかな色を放ち出す。低学年の頃よりも大人びた表情をするようになった女の子達は、流行りの恋愛ドラマや少女漫画を追うように顔を寄せ合って囁き合っていた。気になる男子について、恋について、その渦中のあれこれについて。
「灰原さんは好きな人いるの?」
彼女達から一線を引いて給食を食べている途中、カラフルな髪留めで飾った女の子に訊ねられ、哀はごくりと白米を飲み込んだ。
「どうかしら」
「告白された事は?」
「それも、どうかしら」
弾けるシャボン玉のように次々と投げかけられる質問に悪意はなく、哀は苦笑をこぼした。
――好きだ
抱き寄せられたのと同時に落とされた言葉。変化の始まりは、一年前の夏の終わりだった。
会話に夢中になっている女子達を横目に給食を食べ終えた哀は、気分転換がてら教室を出た。廊下から見える運動場では、六年生の男子グループがサッカーに夢中になっている。彼らはあと半年もしないうちに卒業をする。そして、次の年には自分達も。
穏やかな小学校生活に身を置いていると忘れそうになる。時間が刻々と流れているという事実。二人の関係は花火のように不安定だ。
視線の先には見知っている二人の姿があった。歩美と元太だった。廊下の窓から入って来る秋風が、歩美の長くなった黒髪をさらさらと揺らしている。
「あれ、哀ちゃんだ!」
こちらに気付いた歩美が、ぱあっと笑顔を弾かせ、元太に一言添えてからこちらに駆け寄ってきた。
「哀ちゃん、久しぶりだね。元気?」
「え、ええ……」
うなずきながら、哀は今しがた歩美と一緒にいた元太を視線で追う。歩美と共に哀に気付いた元太は、視線だけで挨拶を残し、背を向けて歩いていってしまった。
「哀ちゃん、どうしたの?」
「……小嶋君とは、大丈夫なの?」
訊ねながら、胸につかえた違和感の正体を見つけた。運動会が終わった頃からの二人の間には、独特な距離があったはずだった。
「元太君と? もう話は終わったから大丈夫だよ」
「仲がいいのね。少し前には喧嘩しているように見えたけれど」
大人げない発言だとすぐに分かったけれど、もう引き返せない。哀の言葉に、歩美の表情が変わった。
廊下ではさまざまな声が反響する。自分達のすぐ隣を、ハンカチを持った女子二人が笑い声をあげながら歩いていった。
「哀ちゃんは、コナン君と喧嘩でもしたの?」
後悔を飲み込む哀を眇めるように見つめていた歩美の瞳は、子供のそれではなかった。歩美の問いに、更に納得を得る。喧嘩という単語が相応しいかは分からない。しかし、他人事だった事柄に足を踏み入れている現状に、ようやく気付いたのだった。