花火もよう


 一年前の夏、解毒剤は完成しなかった。コナンは何事もなかったように、今も毛利家に居候している。

「コーヒーでいいよな?」

 リビングのすぐそばにあるキッチンから、コナンが二つのマグカップを持ってきて、テーブルの上に置いた。このテーブルもあと一か月もすればコタツ布団がかけられるのだろうか。この家にはコナン以外の気配がない。テレビの付いていない室内は、耳が痛くなるほど静かだ。

「ごめんなさい……」

 ぽつりと零れた言葉が、カフェインの香りの放つ湯気に混ざった。

「何の話だよ?」

 眉を寄せた表情を崩さないまま、隣に座ったコナンが哀の様子を伺う。レンズを介してもコナンの瞳はいつも澄んでいて、時々恐ろしい。

「あなたが私を避けている事を分かっていながら、大した用事もないのに来てしまったから」

 哀の言葉に、コナンの眼差しがわずかに揺れた。難事件を解決に導く時とは違う、哀だけが知っている表情だった。
 二週間ほど前、元太と歩美の距離感に変化があった。哀はあくまで第三者側にいるので、彼らに何があったかは知らない。お年頃、という言葉で微笑ましく思っていた。そうやって教室内で起こる小さな事件を俯瞰する事で、自分を保っていたのかもしれない。誰よりも大切にしたかった人の人生を奪ったという事実をもって、自分自身を律するために。
 いつの間にかマグカップは湯気を放たなくなっていた。時計の秒針音が小さく響く。コナンの腕にあるものだった。

「違うんだよ、灰原」

 視線を落としたまま、コナンがつぶやく。

「おまえを避けていたわけじゃない」

 じゃあどうして。あらゆる疑問が全身を駆け巡る。
 示し合わなくても、朝は道端で出会えた。約束をしなくても、放課後には阿笠邸で二人で過ごした。当たり前の日常は、失ってから初めて偶然のものではなかったのだと気付いてしまった。
 このまま離れる事はきっと簡単だった。小学校高学年という多感な時期の変化はおかしいことではない。流されるままに離れて、コナンなりの未来がそこにあればよかった。
 でも、できなかった。耐えられなかったのは哀のほうだ。

「灰原」

 まだ声変わりをしていない声で、コナンが言う。視線が絡んだ。いつの間にかコナンは哀を見ていた。

「おまえは、ずるいよ」

 冷たい感触が頬を撫でる。コナンの指先だった。

「いつも俺ばかりだ」

 頬を辿っていた指先はやがて耳に触れ、髪を透かし、鼻先に眼鏡のフレームが当たった。焦点がぼやけるほどの至近距離。――好きだ。二週間前に聞いた言葉が、熱を持って胸を焦がした。
 輪郭が曖昧になればなるほど、瞼の裏に映る花火がくっきりと映った。形を変えながら、ゆっくりゆっくり変化していく光。それらが視界を遮った途端、哀は衝動的にコナンの眼鏡を剥ぎ取っていた。レンズ越しじゃない、哀の全てを丸裸にするようなコナンの眼差しに、このまま溶かされてしまいたいと思った。

「違うわ」

 言葉よりも先に、唇に熱が触れていた。口付けていたのは、哀からだった。

「好きになったのは、私が先なのよ」

 出会った時からずっと、コナンだけだった。哀にはコナンしかいなかった。コナンが別の人を見つめていた時も、元の世界に戻る希望を抱いていた時も。
 想いを閉じ込めていた心の蓋が、音を立てて崩れていく。

「あなたにとって初めてじゃない事が、私には初めてなんだわ……」

 教室の景色も、ランドセルの重みも、変化を遂げていく成長も、哀にとっては他の子供達と変わらない、全てが新鮮で初めての経験だった。コナンと身を寄せ合った世界で、自分ばかりが心を震わせる。
 ふっとコナンが目を細めた。

「馬鹿野郎……」

 冷えていたはずのコナンの指先は、哀の体温と同じ熱を放っていた。今度はコナンからキスを仕掛けられる。先ほどよりも深く、熱を分け与えられる。

「こんなの、俺だって初めてだ」

 子供のものとは違う、しかし決して大人にはなりきれない張り詰めたコナンの表情も、きっと哀にしか見せられないものだ。ぞくり、と何かが背筋に走り、哀は両手でコナンの襟元を掴んだ。
 もっと、コナンに近付きたい。



(2023.7.18)
9周年記念小説。ありがとうございました。