Dear…

 世の中はバレンタインブームで盛り上がっている。二月の寒い空の下、クラスの可愛らしい女の子達はファッション誌の特集を広げながら、どんなチョコレートを作ろうかと思案していた。
 もちろん哀は聖バレンタインが処刑された日なんて興味ないし、今年に入ってから事実上付き合っている相手も甘党ではないので、自分には関係ないイベントと思っていた。
 その事件が起こったのは、そんな日々の中でのことだ。



「灰原さん」

 昼休みに入り哀が教室を出ると、廊下で見慣れない女子二人に呼び止められた。声の方向に目を向けると、黒髪を短く切った女子と、その横には茶髪を無造作に伸ばした女子が、哀の行く先を拒むように立っている。

「…何かしら」

 コナンと正式に付き合い出してから、お弁当を二人で食べることにしていた。教室だと目立つので屋上で、哀が作った二人分のお弁当を並べて昼食を摂る時間は、思った以上に幸せだった。
 短髪の方が哀の持つお弁当袋に視線を向け、そのまま哀を睨んだ。

「ちょっと話があるんだけど」

 話の内容は呼び止められた時から分かっている。哀はため息をついた。

「分かったわ。でもここだと邪魔で迷惑だから、場所を移動しましょう」

 哀がそう言って返事を聞かないうちに歩き出すと、二人は「何様だよ…」と舌打ちをしながら、哀の後ろをついてくる。それが滑稽で思わず笑ってしまいそうになった。
 今更ではあるが、コナンは人気があるのだ。その要素を兼ね備えている。哀からしてみれば、女心も分からない上に自分のことすら分かっていない、いつまでも子供のようなコナンが何故…と疑問に思うこともある。頭がいいことも容姿が整っていることも、哀にとってはどうでもよかった。
 いや、だけど、あの瞳で見つめられたら哀も硬直してしまう。案外学校の女子が騒ぐのは、哀が顔を赤くする原因と同じところにあるのではないか。そう思うと少しくすぐったくて、でもどこか面白くない。

「どこまで行くんだよ」

 茶髪のほうがつっけんどんに言う。哀はようやく振り向き、

「呼び出したくせに今まで何も言わずについてくるだけなんて、馬鹿正直ね」

 コナンに見せるのと同じ笑みを浮かべると、二人はかっと赤くなり、悪意に満ちた瞳で哀をじっと見据えた。
 正面玄関の下駄箱の前で、昼休みのこの時間は人が通ることがあまりない。

「灰原さん、江戸川君と付き合っているって本当なの」

 睨んだまま茶髪が単刀直入に言う。哀はため息をついた。その噂はすでに出回っていたし、今更「これまでの噂はデマで今は本当に付き合っています」と言って回るわけにもいかない。だけどそう聞かれたら嘘はつけなくて、

「…そうよ」

 哀が答えると、二人の視線が一層強まった。

「なんで? 今まで灰原さんも江戸川君も違うって言ってたじゃん」
「つか、噂を逆手に取って灰原さんから言い寄ったんじゃないの? ずるくない?」

 同時にまくしたてられ、その言葉がちくりと哀の胸を刺した。
 彼女達の言っていることは間違いではないのだ。哀も彼女達と同じ立場だったら、きっと同じことを思う。同じ女同士だから分かることもある。醜くて汚くて、手段を選ばないやり方を見透かしている。
 だけど、と哀は思う。

(私だって、あなた達と同じ立場になってみたかったわ)

 組織のことやアポトキシン4869のことなど無関係で、同じ中学生の立場で、それでコナンに選ばれていたのだったらどんなに幸せだっただろう。
 だけど自分は違うのだ。そんな単純な恋愛感情で一緒にいられるはずがなかった。その純粋さとは無縁の場所で生きる他なかった。
 何も言えないでいる哀に、二人の言葉は更に汚く、罵声へと変わっていく。
 その一つ一つに傷つきながら、でも自分には傷つく資格などないと思う。同じ相手を好きになって、それでもこんな自分を許してくれた親友の笑顔が脳裏をかすめた。

「ねえ、何も言い返せないってことは、そういうことでしょ?」
「江戸川君は、あんたのそういう汚いところを知ったら絶対嫌いになるよ。別れなければうちらチクるよ?」

 二人の言葉に、

「そうね…」

 哀が目を伏せ、二人が勝ち誇った表情をした時。

「ちげーよ」

 三人の死角にあった柱から、話題にのぼっていたコナンが顔を覗かせた。

「え、江戸川君!?」

 まさかコナンにこの現状を知られていると思っていなかったのだろう。二人は慌てて取り繕い出した。

「あの、だって! 江戸川君は騙されているんだよ!?」

 これまでそれなりに哀を追いつめていたのに、一度崩れ出したら形勢逆転となる。だけど哀には分かってしまう。彼女達は本当にコナンを好きで、心の底から心配して、そして哀を憎んでいるのだ。だからこの状況にほっとしつつも、胸が痛んだ。
 そんな思いを知る由もないコナンは哀の横に立って、二人を見据えた。二人はびくりと震え、コナンを見上げる。

「ひでぇ事言うんだな」

 哀の背中もぞくりとするほど冷めた声で、コナンはつぶやいた。

「おまえら何も分かっていない癖に」

 そう言って、コナンは哀の手を取り、握りしめた。

「こいつはそんなんじゃねーよ。自分のことだけ考えているおまえらとは違う。例え俺を好きでいてくれたとしても、その感情を捨ててまで俺の幸せを考えてくれるような女だ」

 コナンの言葉に、思わず哀はコナンを見上げた。コナンの横顔はまっすぐに彼女たちを向いていて、その強い意思を持った瞳は昔に見たそれを同じだった。

(だめだ…)

 ―――また、ほだされてしまう。
 彼女達は悔し紛れに謝罪を述べ、そのまま走り去ってしまった。
 今になって、手に持ったお弁当袋がずしりと重たく感じた。

「授業終わって大分経つのに、どこに行ったのかと思って」

 手を握ったまま、コナンは哀を向く。

「…相変わらず人探しをするのは上手いわね」
「そうじゃねぇだろ」

 哀の皮肉にも答えず、コナンは怒ったようにつぶやいた。

「なんであんなこと言われて、肯定してんだよ」

 コナンの言葉に、哀はうつむいた。

(きっとこの人には分からない)

 この感情の奥底を知らない。それは哀にとって都合のよいことだけど、でもこの場合だと余計に軋んでしまう。

「哀」

 最近になってようやく定着した呼び方で、コナンは哀の肩を掴んだ。思わず顔を上げると、想像とは違い弱い色の瞳をしたコナンがそこにいた。

「そうやって思っていることを押し込めるな。おまえはおまえが思っている以上に他人のことを考えているし、もっと自分を大事にしたほうがいい」

 いつかにも聞いた言葉と同時に、その力強い腕に閉じ込められた。
 傷つけてばかりだと思った。コナンの事も、歩美の事も、コナンを好きでいる名前も知らない女子生徒の事も。
 でも不思議とこの腕に救われる。コナンの言葉が本当のように思える。

「…江戸川君」
「何」
「お腹が空いたわ」

 コナンの胸元に顔を押しつけながら哀がつぶやくと、コナンがふと笑った。

「おまえには敵わねーな」

 身体を離し、正面から哀を見つめる。そして哀の額に口付けを落とすと、再び哀の手を握って歩き出した。今度こそお弁当を持って、いつもの屋上へと向かう。

「なぁ、助けてやっただろ?」
「…頼んでないわ」
「俺、バレンタインはゴディバがいい」
「あなた甘党じゃなかったわよね」
「でもバレンタインは特別だろ?」
「図々しいわね」

 きっと他の生徒達は知らない。こんな無情な会話を重ねることが日常であることも、二人でいることで乗り越えられる痛みが存在することも。

(その感情を捨ててまで俺の幸せを考えてくれるような女だ)

 先ほどのコナンの言葉が耳の奥で響く。
 そんな高尚なものではないと思う。この数年間に哀のしていたことはエゴの塊で、コナンを幸せにすることは出来なかった。だけど隣に視線を送れば、目を細めて笑うコナンの顔に出会い、こうして軽口を叩くような時間が何よりも平穏で幸せだと思うのだ。



タイトルはMay.Jの曲から頂きました。
(2014.9.14)