キスはいらない

 中学三年生にもなれば衣替えに一喜一憂することもない。しかし、六月が始まってから視界に映る白色の割合が増えると、夏の始まりを迎えたのだと思い知らされる。
 灰原哀はじっとりとした湿気を文字通り肌に感じながら、放課後の廊下を歩く。窓からは部活中の生徒達のかけ声が響いている。

「哀ちゃん!」

 自分をこの愛称で呼ぶ人間は一人しかいない。いくつになっても無垢な笑顔を向けてくる彼女への嫉妬心を隠しながら、哀はゆっくりと顔をあげた。

「吉田さん、今帰り?」
「ううん、これから職員室に行かなくちゃいけなくて。あ、そういえば今日コナン君が休んでいるんだけど、哀ちゃん何か聞いている?」

 吉田歩美が口にした固有名詞に、哀はゆっくりと首をかしげる。

「…いいえ? 同じクラスの吉田さんが知らないなら、私も知らないわよ」
「だって、コナン君と一番仲良しなのは、哀ちゃんだもん」

 女同士にしか分からない、ちょっとした言葉の武器を向けられた事に気付き、哀は小さくため息をつく。少し意地悪だったかもしれない。哀が隠していたつもりの感情を、きっと歩美は気付いている。そして歩美もわざと言葉で攻撃を交わすのだ。
 親友でいながら距離感を間違える。歩美が江戸川コナンに告白して振られたのは、もう三年も前のことなのに。そして哀の恋心の行く先を気付かれてはいけないはずなのに。
 適当な挨拶を交わして、哀は正門を出る。夕方の今でもアスファルトは湿気と熱を帯びているようだ。まだ慣れない半袖のセーラー服では、二の腕が心許ない。


 江戸川コナンが本日欠席をしているらしい。歩美の言葉を思い出しながら、哀は考える。昔の彼ならともかく、今のコナンは警察関係者との付き合いが濃いわけでもなく、事件に首を突っ込むような好奇心をどこかに失ってしまっている。風邪でもひいたのだろうか。昨日の夕食時は特に変わりはなかったけれど、ここ数日は哀の携帯電話に連絡がなかった。
 もっとも、連絡がある日は不毛な関係に傾れ込むにすぎないのだけど。
 自嘲しながら米花町へと足を踏み入れ、住居としている阿笠邸の前の通りに入って行くと、ちょうど工藤邸の前には見覚えのある影が立っていた。

「灰原?」
「…江戸川君、あなた何しているの? 風邪をひいたんじゃないの?」

 哀が学校指定の鞄を抱え直してコナンに近付くと、コナンは眉根を潜める。

「風邪? 俺、そんな事言ったっけ?」
「吉田さんから学校休んでいるって聞いたからそう思ったんだけど。風邪じゃないなら、どうしたの?」

 よく見れば眼鏡をかけるコナンの表情はいつもと変わらず、顔色も悪くない。ほっと胸を撫で下ろしながら訪ねると、コナンはようやく笑った。

「ああ、親父と母さんが帰国しててさ。色々連れまわされていたんだ。一時間前くらいにタクシーに乗って行ったから、今頃空港に着いているんじゃねーかな」
「ご両親が帰国…? 知らなかったわ」
「言ってねーもん」

 コナンの的確な返答に、哀はかっと顔を赤くした。コナンの事なら何でも知っていると勘違いしていた。何でも知る権利があるのだなんて、どうして一瞬でも思ってしまったのだろう。

「なぁ、それより母さんが土産で紅茶くれたんだ。家で飲んで行かねーか?」

 歩美と同じ、幼さを残した顔でコナンは笑う。どうせ工藤邸に足を踏み入れたらいつもの二の舞だ。分かっているのに抗えない。哀はうなずき、コナンの後ろを歩く。



 恋人でもないのに寝るだけの関係なんて不毛だ。
 とても自然に、呼吸をするように初めて彼に触れたのは中学一年生の事だった。自分の中にある、もう一人の自分の存在が顔を出しそうになる時、同じ運命を辿ったコナンの身体を指で辿ると、安心感を覚えた。性依存ではないはずだが、ひとつの中毒になっていた。
 コナンは両親の話をしながら紅茶を淹れる。本来、コナンはコーヒー派のはずだったが、母親である有希子に会った後は必ずこうして紅茶を淹れてくれた。
 リビングのソファーに座って新聞を読む哀に横に、コナンも座る。他愛のない会話をしながら、哀はコナンの横顔を眺める。

「…俺の顔に何かついてる?」
「いいえ。でもなんだか寝不足な顔をしているわ」
「ああ、昨日の夜も母さんの長話に付き合ってて、今朝から親父に付き合って横浜まで行ってきたし、あまり寝てないんだ」

 コナンはティーカップをテーブルに置くと、横から哀に寄りかかり、哀の肩に頭を乗せてきた。

「だからかな、今すっげー眠い」

 コナンの体重を感じた哀は、先ほどのコナンと同じようにカップをテーブルに置く。二つのカップが湯気を立てて木彫のテーブルに並んでいる。
 コナンの体温を感じるだけで身体がこわばってしまうのに、心臓が弾むように痛くなる。呼吸の仕方を忘れてしまう。最近は制服姿ばかり見ていたからだろうか、私服であるストライプのシャツの布地の感触に、尚更胸が苦しくなる。

「こうしてると、すげー安心する……」

 眼鏡をかけたまま目を閉じたコナンが、小さくつぶやいたのが聞こえた。
 本当に彼はこのまま眠りそうで、寝顔に近いその表情をしばし眺めた哀は、ゆっくりと呼吸を整え、酸素を取り入れ、何事もなかったように言葉を紡ぎ出す。

「こんなところで寝たら風邪をひくわよ」
「んー…、じゃあ灰原が抱きしめてよ」
「抱きしめるだけでいいの?」

 言ってしまってから哀は後悔して顔をしかめるが、コナンは気にしないようにふにゃりと表情を崩して、哀の肩に両手を置いた。

「いいよ」

 そうして、哀の唇に触れるだけのキスをしてから、寄りかかるように哀の身体を押し倒し、そのまま二人で狭いソファーに転がるような体勢となる。

「ちょ…、ちょっと、江戸川君?」

 抗議するように哀はコナンの腕から抜け出そうとするが、そのままコナンは目を閉じて眠りへと入っていったようだった。
 先ほど触れた唇の感触が今になってじわりと蘇る。恋人でもないのに寝るだけの、ただそれだけの関係のはずだった。こんな風に、恋人のようにキスをして抱きしめて眠るだけの時間が訪れるなんて、そんな現実が訪れていいわけがない。
 コナンの本来の姿を殺したのも、彼の未来を奪ったのも、自分なのに。この感情が報われていいはずがなかった。

「抱きしめているのは、あなたじゃない……」

 コナンの腕の中で哀は小さくつぶやいた。制服のスカートが皺になるかもしれないと考えるが、この体温の中から抜け出す事は不可能だ。衣替えをした事で哀の着るセーラー服の布地も薄くなり、コナンの腕の重みを感じる。シャツ越しにコナンの心臓が聞こえる。明日からコナンも自分と同じように、夏服を着て中学校に通うのだ。
 恋心なんていらない。キスなんていらない。彼の愛も、かけがえのない平和も、自分の未来も、何もいらない。
 ただこの時間が永遠になればいい。規則正しい音を耳で聴きながら、窓の外が薄暗くなっていくのを瞼の裏で感じながら、そう思った。


(2018.1.24)