振り向くことをしなかったのは覚悟があったからではなく、怖かったからだ。
6.秘密の裏側(3)
打ち明ける機会がなかった、なんて言い訳が成り立たないことは分かっている。哀とコナンは数え切れないほど多くの時間を二人きりで共有したのだ。
真実を葬った罪と一緒に。更に秘密を重ねながら。
「どういうことだよ?」
重い空気の中ファストフードを後にし、沈黙して哀とコナンは同じ帰路を辿った。工藤邸には帰らず、哀の後をついて阿笠邸に入った途端の開口一番はそれだった。
哀はそんなコナンを無視してリビングに入り、ソファーに鞄を置く。
「おかえり、哀君」
いつものように出迎えてくれる博士は、哀に続いてリビングに駆け込んで声を荒げたコナンを見て、何事かと目をきょろきょろとさせた。
「おい灰原!」
普段は理性的に行動するはずのコナンのその声に、哀は首をかしげてようやくコナンに振り向いた。
「…私の行く高校まであなたに干渉される覚えはないわ」
「そうじゃなくて!」
鞄を置くことも忘れてコナンは哀に詰め寄る。
「なんで相談しなかったのかって聞いてんだよ!」
「だから、相談する必要があったの?」
どこまでも冷静な哀に、開いていくばかりの温度差に、うんざりとした顔を見せたコナンが鞄を床に置いて乱暴にソファーに腰をかけた。そこへ動揺しながらも博士がコーヒーの入ったマグカップを二つ持ってきてくれた。
「ありがとう、博士」
一つ受け取り、哀もコナンと同じソファーに座る。敢えて距離を開けて座ると、コナンが苛立ちを見せたが気付かない振りをする。
コナンの分のコーヒーはテーブルに置かれ、ただ事ではない空気を気遣いリビングを出て行った博士に心の中で詫びながら、哀は熱いコーヒーを啜った。
「…博士は知っているのか?」
ようやくコナンもコーヒーを手に取り、カフェインを摂取したことで落ち着いたのか、静かに訊いた。
「もちろんよ。保護者欄にサインもしてくれたわ」
「なんで米花女子なんだ?」
再びテーブルに置かれたコナンのマグカップの湯気を見つめながらコナンは問う。哀は何も答えない。
ふと、コナンの表情が動いた。推理をしたときのような、何かをひらめいたときのような目つきに変わり、まさか、とつぶやくのが聞こえた。
「…おまえ、米花大学への進学を考えたのか?」
哀の思惑を読まれた気がして息を飲む。コナンの顔を見ることが出来ず、マグカップを両手で握った。
「灰原、おまえ…」
「そうよ。あなたの考えているとおりよ」
枷が外れたように、哀の口から言葉が飛び出した。
「トップ成績で入学すれば、米花大学医学部の研究室を使わせてもらえるからよ」
言ってしまってから、コナンを見た。コナンの青みがかった瞳が揺れるのが見えた。まるで思いもしない犯人を見つけてしまったような、そんな目をしている。
「…おまえ、まさか今でも解毒剤を作ろうとしてるんじゃ」
その低い声こそ静かなものだったが、その目は怒りを含んでいて、まるで心の中を全て見透かされた気がして、思わず視線を逸らした哀に、
「おい、灰原!」
コナンの手が哀の肩を掴む。哀の持つコーヒーの水面が揺れた。顔を背けた哀はコナンの顔を見ることも出来ない。一度でも目を合わせたら、知られたくない気持ちが全て吐露されそうだった。
「なんでだよ!」
コナンのその声は、悲痛の叫びに聴こえた。
「工藤新一は五年前に死んだんだ。今更そんなもん作ってどうすんだよ!」
「―――死んでなんかいないわ!」
日頃出さないような音量の哀の声は少しかすれた。
「死んでなんかいない。あなたのご両親はまだ死亡届を出していない」
予想もしなかった哀の言葉に、コナンは目を見張る。恐る恐るコナンを見れば、コナンは口元を震わせたかと思うと、そのまま無理やり哀の身体を抱き寄せた。
その衝撃で哀のマグカップから零れたコーヒーが、床にシミを作る。
「なんで…」
哀の耳元でささやかれた力ない声は、泣いているように思った。
「今更戻ったって…」
その震えた声に、哀はあの天使のような黒髪の少女を思う。今では少女と呼べる年齢ではないが、哀にとって時間はそこで止まっているように思った。
「あなた、逃げるなって言ったじゃない」
床にこぼれたコーヒーを横目で見ながら、哀は静かにつぶやいた。
「運命から逃げるなって言ったじゃない」
哀の言葉に、コナンの腕の力が弱まる。
(どうしてこの人は、他の子を思いながら私を抱きしめるの)
黙ったまま動こうとしないコナンに哀は嘆息し、それでもこの腕の温かさを感じて目を閉じる。
湧き上がるこの醜い感情を、哀は知っている。突き刺す言葉は止まらない。
「なのに、あなたは逃げているだけだわ」
秘密を共有した時間が長すぎたことを後悔した。