7-1

 様々な想いに囚われて生きていくのが人間であるならば、なんて悲しい生き物だろう。


7.もうやめましょう


 ―――あなたは逃げているだけだわ。

 昨日の哀の言葉が鼓膜から離れない。
 コナンは校舎の屋上のフェンス越しから運動場を見下ろす。どこかのクラスの体育の授業では、ドッヂボールの試合が行われているようだ。ひどく懐かしい光景に思えた。

(俺だって中学生のくせに)

 遠い昔の思い出が脳裏をかすめた。なんて自虐的な行為。
 ため息をついて顔を上げると、空は恨めしいほどに青く広がっている。時折吹き抜ける風が頬に触れて痛い。その冷たさに顔をしかめた。
 ギィ、と屋上の入り口の扉が音を鳴らし、反射的に振り返ると、

「…ここにいたのね」

 哀と目が合った。その途端、コナンから先に顔を背ける。そんなコナンを気にする様子も見せず、哀はこちらに歩いてきた。

「吉田さんが探していたわよ。あなたがサボるなんて珍しいじゃない」

 そのまま哀もコナンの隣に立ち、フェンスにもたれた。その振動がフェンスを通してコナンにも伝わる。しばらく沈黙が走り、

「…昨日は言いすぎたわ」

 先に口を開いたのは哀だった。その声にコナンは哀を見る。太陽に照らされた横顔を反射する茶髪が眩しい。

「おまえがそう言うのも分かる気がするよ」

 ―――逃げているだけだわ。
 そんなつもりはなかった。決意と覚悟で生きてきたつもりだ。ただ時々正体不明の不安に襲われたとき、コナンはその対処法を見つけることができず、哀をがむしゃらに抱いた。

(もう工藤新一に戻る必要はない)

 それを逃げだと責められても仕方なかった。工藤新一が死んだと告げ、蘭との未来を失った日のコナンの行動は、哀の目にはきっと不格好に映ったのだろうと思う。自分でも情けなくなるくらいだから当然だった。
 哀も身体ごとコナンを向き、身長差の出来たコナンを見上げる。その口元は意思を持って、

「もうやめましょう」

 コナンの瞳を見つめて、はっきりと言った。

「…何を?」
「私達の関係よ」
「……」

 突然の科白に、コナンは思考を巡らせる。だけどどこかでその終止符を分かっていたような気もしていた。

「…なんでだよ?」

 かすれた声が出て、ますます情けなくなる。たった一言しか返せないコナンに、哀は目を伏せた。

「いい機会だと思わない? 私達はお互いを知りすぎてこんな風になったけれど、この身体で生きていくと決めたならば、もっと広い世界で生きていくべきなんだわ」

 哀の言うとおり、二人は秘密を知るお互いを必要としていた。そして幼馴染とも呼べる少年探偵団。未だに構築された人間関係はそれだけだ。コナンにはそれ以外必要なかった。
 だけど哀は世界を広げて、進学先も決め、灰原哀としての人生を過ごす覚悟を持ったのだろう。

(…俺はどうなんだろう)

 未来はいつだって歪んでいる。だけど哀が隣にいてくれれば、酸素を吸い込んで呼吸ができるくらい自然でいられたのに。 

「それじゃ…」

 そのままコナンの顔も見ず、哀は背を向けてゆっくり歩いて行った。扉の音が重く響く。閉まる扉をぼんやりと見つめた。
 工藤新一の未来を閉ざした時と同じ喪失感だけが胸に残る。
 あの頃に決めた人生には、哀が必要だった。