思考がうまくまわらない。皮膚を刺すような冷たさに、身体がぶるりと震えた。
飛行機に乗って約一時間、さらに電車に乗って三十分、コナンに連れられて降り立ったのは覚えのある地方都市だった。三年前の夏に来た地方都市の繁華街は、あの時よりもモノトーンがかって見えた。空は白く、街中の人々は黒や紺のダウンコートを羽織っている。
「江戸川君……!」
足早に歩くコナンの後を追いながら小さく叫んだ。アスファルトの上でゴロゴロゴロと規則正しく響いている音は、コナンが引きずっている黒いキャリーケースだ。
「どこに行くの?」
一月の平日だというのに、観光客が多いのか街中は今日も人で溢れている。だけど、あの祭りの日とは違い、現実と地続きになっているような景色になおさら焦燥感が募った。
どうして自分がこんな場所にいるのか、キャリーケースの音が響くたびに思い知らされてしまう。
三年間身を預けていた研究施設、没頭していた薬の開発と、流されるがままの生活。あそここそが自分のいるべき場所だったはずなのに、もう帰れる所はない。
規則正しく鳴っていたタイヤの音が急に止まったのと同時に、コナンがゆっくり振り返った。
「灰原」
低くて芯のある声だった。まるで昔から自分を知っているような。
哀はようやく自分の立っている場所を認識した。ビルの看板、交差点にある案内標識に、バス停の名称。
「三年前、ここで何があった?」
ここは、三年前にコナンが巻き込まれた事故現場の近くだ。
自分達のいる商業ビルの正面玄関前は、ちょっとした広場になっていた。柱に寄り掛かるように立ったコナンは、眼鏡のレンズ越しにまっすぐに哀を見つめてくる。その視線はやはり、最近見たものとは違う、いくつもの人格が混在しているもののようで、おののいた哀が一歩後ずさった拍子に通行人とぶつかりそうになり、バランスを崩したところをコナンに支えられてしまった。反動で抱き留められるような形になり、その距離感が痛い。
「灰原」
その至近距離でコナンと視線を交わす事さえ怖くなり、うつむいている哀を咎めるように名前を呼ばれ、哀は震える唇でゆっくりと息を吸った。乾いた冷たい空気が気道を通り、ますます胸がしくしくと痛んだ。
「そ、そんな事……、あなたほどの人間なら、調べぐらいついているんじゃないの」
沸き上がった感情とは裏腹に、言葉が逆方向に発された事に哀は静かに失望した。こんな憎まれ口を叩きたいわけではないのに。
大通りをトラックが走っていき、それによって発生した風がビルのガラスを叩く。関東地方からすぐに飛行機に乗る予定だったので、哀の服装は雪国仕様ではない。それに気付いているのか否か、コート越しの哀の背に触れるコナンの手のひらに力が込められたような気がして、なおさら言葉が渋滞した。
「俺は、おまえの口から聞きたいんだよ。この街にいた理由も、浴衣レンタルをした理由も」
「……そんなの、私だって知りたいわ」
どこでもいいから逃げたいわ、と縋りついたのは確かに哀で、だけどそこから先はすべてコナンの意思だった。この街を選んだのも、祭りに行こうと言い出したのも、哀に浴衣を着せたがったのも。
「あなたも知っての通り、私は外資系の製薬企業の研究施設にいたの」
「無理やり連れて行かれたのか?」
コナンの指摘に、哀は目を伏せ、「分からないわ」と答えた。
「確かに強制的なものだったけれど、ひどい扱いを受けたわけじゃない」
研究施設の関係者に声をかけられ、身がすくんだのは自分自身に後ろめたさがあったからかもしれない。平穏な日々に身を預ける灰原哀という人間がリアルになっていく感覚に身震いを覚えた。誰よりも贖罪を忘れてはならない立場にいるのに。
逃げたかったのは、もしかしたら自分を追う研究施設からではなくて、本来の自分を忘れそうになるほどの温かな日常からだったのかもしれない。
「誰にも相談しなかったのか」
コナンの声が詰問のように聞こえ、むっとした哀は思わず顔をあげた。
「できるわけがないわ!」
小さく叫んだ後、軽く抱きしめられたままの距離で目が合い、どきりとした。
「俺にも、言わなかったんだな」
コナンの低い声からは、先ほどまでには見えなかった悲痛さを読み取れてしまい、哀は唇を噛んだ。
巻き込みたくなかった、なんてただの言い訳だった。本当にコナンを思うのであれば、この場所にコナンを一人残すなんてしてはいけなかった。そもそもこの街に来てはいけなかった。近づいてはいけなかった。ぬるま湯のような日々に溶けた甘い感情に、身を焦がしていなければ。
最も正しくない方法によって、哀はコナンを傷つけてしまったのだ。
「灰原」
年越しの花火を見た時と同じように、コナンが哀の左肩に頭を乗せた。
「俺が一番失いたくなかったものが何なのか、分かるか?」
平日の昼間、商業ビルの正面玄関前に佇む哀とコナンを、大学生風の男女が物珍しそうに一瞥して歩いていった。
物理的にも心理的にも陸続きにある景色に胸が痛んだ。戸籍を持たない哀のパスポートを偽造したのは、研究施設だった。陰陽を同じ肉体に詰め込んだようなあやふやさが、苦しい。
乾いた風が目に刺さり、哀は瞬きを繰り返す。涙は出ないのに視界は滲む。ああ、そうか、と哀は途端に答えを得る。
物事を二面だけでは語れない場所を彷徨いながら、コナンは生きてきたのだろう。コナンの失ってはいけなかったものなんて、一言で片づけられるはずもなく、
「……うまく、言葉にできないわ」
哀が震える声でつぶやくと、「馬鹿だな」とコナンはゆっくり顔をあげ、弱々しく笑った。
「おまえだよ」
哀の目をしっかりと捕らえてそう言ったコナンは、再び哀を抱きしめた。
(2023.3.18)