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 遠くでアナウンスが響いている。――ただいまからA航空110便、A国行きの搭乗手続きを承ります。
 流暢な日本語と英語が音声で並びあっても、空港の国際ターミナル内の人々は動じることなく目的に向かって歩いている。手に持ったパスポートに視線を落としながら、哀は苦笑いをこぼした。

「それは、あなたにも同じ事が言えるセリフだわ」
「俺は、」

 コナンは哀を見た後、膨らませた風船を萎ませるように勢いを失わせ、小さくつぶやいた。

「……江戸川コナンには、戸籍があるんだ。一年前にできた。二年もかかった。その際に世話になったのが工藤夫妻で……、俺の本当の両親だ」

 コナンが言うには、一部の記憶を失い米花町に戻ってきた頃、工藤夫妻に声をかけられたという。もう一つの保護者だと名乗る彼らはコナンの状況を案じ、法務局に掛け合ってコナンの戸籍を作る手続きをしてくれた。
 その流れで、コナンは工藤邸に住まわせてもらう事になったのだ。

「ずっと違和感があったんだ。ただの他人があんなに親身になるわけがないし、ましてや自分達の不在であんなに大きな家を貸すなんてありえない」
「それで、あの人達に会いに行っていたのね」

 真実を確かめるために。
 しかし、コナンが真実を掴んだからといって、感情が伴ったわけではない。三年前の交通事故によって損傷を受けた彼の脳は、画像診断では判断できないレベルで、しかし確実に蝕まれていった。それがコナンの人格にどれほどの影響を及ぼしたのか、哀には計り知れない。
 あの時の哀の選択は間違っていたのだろうか。燻ぶっている疑問と後悔がずっと渦巻いているままだ。

「それで?」

 ダウンコートのポケットに手を突っ込んで、コナンは言う。

「おまえはその軽装で、どこまで行くんだ?」

 よく見ると、コナンのすぐ横には黒いキャリーケースがあった。まさかのタイミングに、哀は思わず笑った。

「学校もサボり続けていたあなたに筋合いはないわ」
「そこまでの固い信念があって行動しようとしているところ申し訳ねえんだけどさ」

 コナンはそう言い、顎でロビーを示した。
 ロビーにあるテレビは、画像こそ映っているが音声は流れていない。しかし、映っているニュースの見出しには知っている固有名詞が大きく映し出されていた。
 それは、まさに哀が関わっている外資系製薬企業の不祥事だった。正確には、その子会社でもある研究機関の違法性が発覚したという内容で、哀は一瞬にしてすべての感覚を失ってしまった。
 パサリと乾いた音が響き、手に持っていたパスポートがタイル状の床に落ちていた事に気付く。

「……心当たりは?」

 哀よりも高くなった身長を折り曲げるように、パスポートを拾ったコナンが哀を見下ろした。
 テロップに映し出されている内容は、製造そのものに対する不正ではなく、コンプライアンス違反に関するものだった。哀自身も、アウトラインのやり方で強制的に会社に引き連れられたので、いわば被害者なのかもしれない。

「残念だな、これでもうおまえの戻る場所はない」

 言葉とは裏腹の表情を浮かべて得意げに笑うコナンは、哀の手を取った。初詣の時と同じ体温で、どきりとした。

「で、でも……」

 哀は研究機関を抜け出したわけではない。きちんとした手続きを踏んだうえで休暇を取り、帰国しただけだ。行き先を告げなかっただけで、いつかは連れ戻されると思った。
 だから博士には何度も確認していた。米花町周辺に不審者が現れた場合にはすぐにこの生活を手放そうと、そう決心していたのに。
 混乱をしながらも、哀ははっとコナンの顔を見た。

「もしや……、あなたの仕業なの……?」

 震える声でそう訊ねると、コナンはおかしそうに笑った。

「人聞き悪い事を言うなよ。それより、せっかく空港にいるんだ。まだ出国手続きもしていないんだろう? 俺に付き合ってくれないか?」

 哀の手を握ったまま、もう片方の手でキャリーケースを持ったコナンは、哀の返事も聞かずに歩き出した。哀は引っ張られるままブーツを履いた足でただ歩く。この状況に理解がまだ追い付かないままだ。
 国際線ターミナルから国内線ターミナルへの移動途中、乾いた空気の下で日に照らされたコナンの黒髪が、やけに眩しかった。



(2023.3.4)

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