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 休憩料金と宿泊料金が並んだ看板に既視感を覚えた。
 コナンの持つキャリーケースと共にやって来たのは、繁華街から一筋裏通りに入ったラブホテルだった。戸惑いや迷いも見せないまま部屋を選ぶ様子のコナンに、哀は混乱する。

「やけに慣れているのね」

 パネルで部屋を選び終えて指定されたエレベーターに乗り込み、思わず哀が棘のある口調でそう言うと、コナンは先ほどの弱気などなかったかのような表情で笑った。

「ハジメテ、じゃないからだろ」

 コナン自身の記憶や感情に迫る一言だというのに、それはやけに軽く響き、哀が眉をしかめたのと同時に電子音と共にエレベーターのドアが開いた。
 安いホテル内の廊下の上を、キャリーケースが引きずられていく。指定された部屋のドアが閉まった時、施錠の金属音と共に落ちてきたのは、唇への温もりだった。
 コナンにキスをされている。ドアに押し付けられ、手首を掴まれ、でもそれは触れるだけの優しいものだった。後頭部に感じるドアの固い感触と対比した柔らかさに、哀は目を見開いたまま、呆然とされるがままになっていた。
 唇が離れる際、コナンの眼鏡の縁が頬をかすめた。

「あなたは何を知ったの……?」

 確かにコナンの言う通り、コナンとラブホテルに入ったのは初めてではない。しかし、コナンがそれを覚えているはずもなく、また思い出したわけでもない事はコナンの様子を見れば明らかだ。
 哀の問いに、ふっと笑ったコナンは、少々乱れた哀の前髪を指先で整えた後、キャリーケースと一緒に哀の手を引いて部屋の奥へと進んだ。
 二人掛けのソファーに並んで座る。

「何も思い出せないんだ」

 ソファーの上で膝を抱えるように座ったコナンは、正面にある電源の入っていないテレビをじっと見つめているようだった。

「俺の関わっている事件も調べた。俺の出生も、俺の境遇についても、三年前の出来事についても。……行き当たりばったりの中学生がビジネスホテルやネットカフェを利用できるわけがない。本当に、こんなホテルに来たんだな」

 どこかショックを受けたような声色に、哀の胸が痛んだ。疲弊した様子のコナンを慰める言葉も見つからない。何もなかったのよ、なんて白々しい嘘を吐けるわけもなかった。

「……他に方法がなかったのよ」

 どうにか言葉を選んで取り繕うと、コナンは可笑しそうに肩を震わせ、哀を見た。

「おまえの選択を正しくないものだと思ったけれど、俺も同じような過ちを繰り返してんのかな」
「違うわ」
「違わないよ。おまえを大事にしたかったはずなのに」

 あらゆる意識を混在させたような瞳の色がレンズ越しに見えて、哀は言葉を失った。コナンも戸惑った表情を浮かべ、力なく笑う。

「……思い出せないけれど、ちゃんと知ってるんだ」

 窓一つない室内は、外の世界から遮断されているようだった。耳が痛くなるほど静かな部屋に、コナンの声が沈んだ。

「記憶がなくてもちゃんと分かる。おまえを好きだった事、ちゃんと脳が覚えている」

 古い暖房が突然音を立て、哀は乾いた喉を潤すように唾を飲みこみ、恐る恐る口を開いた。

「それは、真実とは違うわ……」
「何を言っているんだよ」

 ふっと笑ったコナンは、ゆっくりと哀の頬に触れた。冷たい指先が震えているのは気のせいだろうか。

「俺の事は、俺がいちばん分かってる」

 三年前よりも骨ばった指が哀の頬をなぞった後で耳たぶを柔らかく掴み、哀は思わず音にならない息を漏らした。
 コナンはどこか懐かしそうに目を細め、「ほらな」と笑って哀を抱きしめた。

「ちゃんと憶えてる」

 冷たいと思っていたコナンの指先が温かい事に気付いたのは、すでにコートを脱がされ、彼の手のひらが哀の着ているニットセーターの下に潜り込んだからだった。
 一度でも存在したものは、ゼロには戻らない。たった一度きりの出来事を、こうも鮮明に思い出せてしまったのは哀も同じだった。
 唇の温度、指の感触、その先にある充足感も、からだじゅうを巡ってはやがて脳へと辿り着く。

「……ベッドに行く?」

 確信を持ったコナンの問いに、哀は三年前よりも広くなったコナンの肩にしがみつき、小さくうなずいた。



 二時間後の外は、薄暗くなっていた。午後五時。それでも平日夕方の光景が、街全体広がっていた。塾に向かう制服姿の学生達、本数の増えだしたバス、混雑しているカフェ。

「ひき逃げだったんだな」

 三年前の事故現場にもなった場所で、コナンはぽつりとつぶやいた。
 コナンが事故に遭ったことすら、ずいぶん後になって知った哀にとって、その事実は見えない空洞をえぐられたような心許なさがあった。
 コナンが事故に遭っていた事を知ったのは半年前、研究施設内のデータベース上でだった。その施設は確かに治癒目的の薬品を開発する事に躍起で、そこには細胞を復元させる方法なども必要で、そこに哀の持つ知識が必要だった。
 哀の預けていたデータを閲覧していた時、管理するその場所のプログラムに紛れた綻びを見つけた。そこを突き進んでいった時に、見つけてしまったのだ。

「私のせいだわ」

 居てもたってもいられなくて、形式上の休暇を取って逃げるように帰国した。博士にはすべての事情を話し、それならと帝丹高校への編入手続きをとってくれた。本来であれば脳の損傷によって一部の記憶を失くしたコナンに会うべきではなかったのかもしれない。

「分かっているんでしょう……? 例の研究施設が、私を連れて行くために、あなたを巻き込んだんだわ」

 哀は隣に立ったコナンを見上げた。すぐ目の前にある大通りを走る車のヘッドライトがコナンの眼鏡のレンズを反射し、コナンの表情をうかがい知れない。
 何か言わなければと顔をあげたまま言葉を探していると、ふいに頬に冷たい何かが乗った。コナンの口元に、ふっと笑みが浮かぶ。

「雪だ」

 そう言って、コナンは哀の頬に触れた。雪はたちまち解けて小さな滴となった。コナンの指はまだ先ほどの熱を持っているようで、呼吸をするのも難しくなる。
 コナンを巻き込んでしまった哀が、こんな感情を抱く事すら間違っているのに。

「これでよかったんだ」

 黒い髪に小さな雪を乗せていきながら、コナンは言う。

「おまえだけが一人になる事よりも、俺とおまえで一人になれてよかった」

 欠落した後の空洞に包まれ、その不安定さこそが愛おしい。最初から失っていたものばかりだった。愛すべきだったもの、本来の名前、広がっていたはずの未来。
 それらとの両立は叶わない。人生の道筋は常にひとつしかない。そのたったひとつを選ぶのであれば、哀にとってはコナンしかいなかった。日本で生きるコナンを思えば、どんなに過酷な研究にも耐えれた。
 コナンがいたから。

「灰原」

 哀の髪にくっついた雪を優しく払うように、コナンは哀の頭を引き寄せた。薄着である哀を温めるように抱きしめる。道行く人がこちらに視線を投げても、ここは非日常だ。

「帰ろう」

 コナンのダウンコートの感触を額に感じた時、今度は頬に温かいものが伝った。
 穏やかな体温に包まれながら、街の気配を思う。今日存在しているものが明日に続くとは限らない。物事は常に刹那だからこそ美しい。
 限りある熱に胸を焦がしながら、哀はゆっくりうなずいた。



(2023.3.26)

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