5-4


 カメラを向けられる事は苦手だった。
 この名前で生きるようになってしばらくの間は自分の存在が広く知られる事に恐れていたし、何よりもカメラのレンズは無遠慮に心のうちまで覗き込んでくる。写真に映った自分は自分じゃないみたいで、だから少年探偵団の仲間達との思い出でカメラを向けられても、哀は心底嫌がった。
 そんな哀に、コナンは笑った。

 ――そんなに嫌悪しなくても、誰も食って掛かったりしないさ

 哀の心情を分かっているくせに、あっけらかんと言うコナンは意地悪だった。
 あれはいつの出来事だっただろう。夏の恒例行事として、博士の引率と共にいつもの五人でキャンプに行った時だ。無邪気な三人が花火を楽しんでいるのを眺めながら、広場のベンチに座っていると、コナンも当然のように哀の隣に座ったのだ。
 まだ背丈の変わらないコナンの横顔を思い切り睨み返すと、コナンは肩をすくめ、レンズの下にある瞼をそっと伏せた。

 ――でも……、分かるぜ。今でも時々、写真に写った俺が誰なのか、考えてしまう時がある
 ――それは、今でもあなた自身が江戸川コナンである事に違和感を拭えないという事?
 ――いや、そうじゃない。まるで化けの皮が剥がれた感覚だ。こっちの俺が本当の俺なのかって、打ちのめされるよ

 コナンの眼鏡には、三人が楽しげに揺らす手持ち花火が反射していた。森林の音を、子供達の声と花火の音が打ち消している。
 夏の音。夏の匂い。視覚的に残らない五感でさえ、写真は記憶を引き出すのだから、やっぱりカメラも写真も得意ではない。



 机の上に広がった写真達は、様々だった。
 少年探偵団の五人で映っているものもあれば、それぞれ個々に映っているものもある。コナンと哀が気まずそうにカメラに視線を向けているものは、きっと博士や歩美達にもっと笑うように促されたのだろう。
 哀は震える手で、まるでトランプカードを混ぜるように写真に触れていく。
 幼いコナンがこちらに強い視線を向けている。しかし、眼鏡をかけておらず、その背後にいる工藤優作の雰囲気が若い。――映ってるのはコナンではない。
 心臓の奥がどきりと音を立てた。
 そうか、と哀はいくつかの写真を持ったまま、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
 コナンは真実に辿り着いたのだ。自分自身について。本当の自分について、家族について、過去について。
 哀は制服のままベッドに横になり、手に持った他の写真にも目を向ける。

「え……?」

 それは、記憶に新しい風景だった。
 大きな花柄が刺繍された浴衣を身に着けた哀と、黒いリュックを背負ったまま哀の隣に立つコナン。背後にはいくつもの浴衣や着物が展示されている事から、そこが浴衣レンタルショップの店内である事がうかがえる。二人はカメラに視線を向ける事もなく、深刻そうな表情で身を寄せ合っているようだった。当然だった。その時に自分達は、スマホの電源も落とし、誰にも言わないまま、在来線だけを乗り継いで逃亡していたのだから。
 哀はゆっくりと起き上がった。制服のプリーツスカートに皺ができていたが、どうでもよかった。もうこの制服を着る事もないのだから。
 再び机の前に立ち上がって、封筒の中を覗き込んだが、メモのひとつなかった。机に広がっているのは、いくつもの写真だけだ。
 それらを封筒に片付けていると、ドアが軽やかにノックされた。

「哀君?」

 阿笠博士だった。哀が返事すると、博士は遠慮がちにドアから顔を覗かせた。

「哀君、その……、調子は、どうじゃ……?」
「博士」

 しどろもどろに視線を泳がせる博士に、哀は微笑んだ。

「最近、何か変わった事はあった?」

 哀の問いかけに、博士は困った表情を浮かべた。それは肯定の合図だった。
 タイムリミットだ。コナンは真実を掴み、哀の居場所は知られてしまった。この三年間哀が在籍していたのは、少々強引ではあるが真っ当な海外企業の一環であり、博士や周囲に危険が及ぶことはない。ただ、いつまでもここにいるわけにはいかない。
 ぬるま湯のような穏やかな日々が長くは続かない事を、哀は身をもって知っている。

「博士、ありがとう」
「でものう、哀君……」
「もう行かなくちゃ」

 でもその前に、と哀は無理やり明るい声を出した。

「今夜は何を食べたい? 特別に、博士の好きなものを作るわ」



 翌朝、博士の見送りは玄関までにしてもらい、コートを羽織った哀はトートバッグを持って米花駅に向かった。
 荷物は持たなかった。再び米花町で暮らし始めてから揃えたものは全て、これからの哀にとって不要なものだ。本当に必要なものこそ、形を持たない。
 米花駅から電車を乗り換え、空港に着いた。ロビーには大きなテレビがあり、搭乗までの時間を持て余した人々がその前のベンチに座っている。
 天井の高い空港内は風が吹き抜け、でも不思議と寒さを感じない。
 哀は通行人の邪魔にならないように壁際に立ち、トートバッグからパスポートを取り出した。そこに映る三年前の自分と今の自分は、何かが変わったのだろうか。何を得て、何を失ったのだろうか。
 三年前の景色の膠着しているのは自分の方だ。哀は小さくため息をつく。思い出に形は必要ないと思いながらも、トートバッグには数々の写真の入った封筒が容積を占めている。
 それに。

「灰原」

 最も求めている声の幻聴まで聞こえ始めてしまった。あらゆる言語の飛び交う空港内の声達に混じって、あまりにもクリアに声が響くから、哀はふっと笑ってうつむいた。タイルの上に乗ったブーツを履いた足が寒そうなのは、冬のせいではない。広い空港のせいでもない。

「おい、灰原!」

 右肩を叩かれ、思わず振り向くとそこにはコナンが立っていた。幻聴に加えて幻覚かと呆然としていると、コナンはため息をつき、哀の手元に視線を落とす。

「そのパスポートはどういった手順で発行されたものだよ?」

 本来の出生証明を受けていない者同士、コナンの呆れた表情を見て、これは夢ではないのだとようやく理解した。



(2023.2.25)

【TOP PAGE】