5-3


 年が明けてからは瞬く間に時間が流れていく感覚も、ずいぶんと久しぶりだ。
 そういえば、別の名前で生きていた時も、再び研究施設に籠っていた時も、季節の移り変わりや空の色に意識を向けようとする感情を持っていなかった。ただ目の前にある事を淡々とこなし、時には感情を押し殺しながら、ただ生かされていただけだった。
 だから、教室に差し込む日の光や空の色を追っていると、その移り変わりに心を揺り動かされる。綺麗なものを綺麗だと思える自分を、少しだけでも許したくなる。それは、正しい道筋から足を踏み出すような行為のようで、その度に哀は目を伏せてしまうのだ。

「灰原さん」

 三学期が始まってあっという間に二週間が経った日の昼休み、今日も立入禁止の屋上に繋がる階段の踊り場で弁当箱を広げている哀の元に、光彦がやって来た。
 哀は弁当箱を片付けながら思わず苦笑をこぼす。

「何よ、あなたは教室で声をかける事はできないの?」

 同じクラスであるはずの光彦とは、ほとんど教室で会話を交わす事はない。それでも哀と光彦は、互いのカードを持って探り合っている。
 ジョーカーは、コナン自身だ。

「そろそろコナン君から何かコンタクトがあったんじゃないですか?」

 哀のいる踊り場よりも数段低い場所に立つ光彦の質問に、哀はどきりと胸を高鳴らせる。淡い期待と小さな落胆が混ざり合い、それを紛らわすように哀は首に巻いたマフラーに触れた。

「なぜ、そう思うの?」
「もう三学期が始まってから二週間が経つんです。年明けから三週間。それだけの期間を、コナン君が沈黙を保っていられるわけがない」
「何を根拠にそんな事を言えるの」

 今日もドアの隙間から流れ込む冬風が冷たく、哀は片付けたお弁当袋を持って、スカートの裾に気を付けながら立ち上がる。
 阿笠邸のポストに入れられていたエアメールについて、哀は誰にも伝えていない。抱えた秘密ごと抱えるように背中を丸めて、階段を降りて光彦の横を通り過ぎようとした時、

「根拠ではなく、願望です」

 すぐ後ろから弱々しい声が響き、哀はゆっくりと振り返った。光彦が同じ姿勢のまま、まっすぐ立って哀を見下ろしている。

「三年前の夏休みだって、コナン君達が帰ってくる事を僕は疑いもしなかった」

 先ほどよりも階段の段数を降りた事で、廊下のざわめきが身近に思えた。昼休みという束の間の自由が、生徒達の声に乗って響き渡っている。
 コナン君達、という複数名詞に、自分も含まれている事を理解した哀は、口をつぐんだ。光彦はふっと口元に自嘲を浮かべた後、哀から視線を逸らした。

「何の根拠もないのに、コナン君も灰原さんも二人で戻ってきて、そして僕達はまた変わらない日々を送るのだと信じていました。……僕が、幼かったんです」

 光彦の目線の先は、三年前の夏にあるのかもしれない。
 地続きのように連なっていた日々は、一瞬にして終焉を迎える。哀はそれを知っている。姉との時間、母や父との関係性、そして自分自身の人生は、ある日糸が切れるようにぷつりと遮断されてしまった。
 哀は年末に見たテレビを思い出す。高校生探偵としてもてはやされた工藤新一。彼が姿を消した時も、そうしていくつかの糸を途切れさせたのだろうか。
 例えば、工藤新一の両親、友人、そして幼馴染。

「……ごめんなさい」

 言葉が唇から漏れていた。声にすることで、喉がカラカラに乾いていた事に気付いた。
 三年前の夏、日常に亀裂が入ったのはコナンだけではなかった。哀は昨日に話した元太を思い出す。彼らも信じていた未来を失ったのかもしれない。
 幼くて愚かだったのは、むしろ自分のほうだ。哀はゆっくりと息を吐き出した。冷たい空気が唇に沁みる。

「円谷君」

 お弁当袋を片手に持ち直し、もう片方の指先で哀は頬にかかった髪を耳にかけた。温度の通わない耳たぶに触れた事で、光彦の立つ場所との境界線が見えた気がした。

「もう行くわ」

 光彦の視線はしっかりと哀を捕らえていた。哀の告げる言葉を初めから知っているような表情は、非難しているようにも見えたし、同情しているようにも見えた。
 哀は今度こそ光彦に背を向けて階段を降りる。光彦が追いかけてくる事はなかった。 



 放課後、阿笠邸に帰った哀は、自分の部屋に置いたままの封筒を手に取った。
 昨夜にポストに入っていた封筒は分厚く、重量感があった。差出人は江戸川コナン、驚くことに住所はロサンゼルスだった。
 昨夜には開けられなかった封筒が、静かな部屋で息を潜めるようにただ存在感を醸し出している。
 哀は昼休みでの出来事を思い出す。コナンの居場所を誰も知らない事、そしてコナンからの連絡を誰も受けていない事に対して、哀はこっそりと小さな安堵感に包まれていた。醜い優越感は、哀の孤独を溶かすようだった。
 ただし、それには責任が伴う。コナンが哀のみに連絡を寄越した意味を確かめるべく、深呼吸を三回繰り返した哀は、ゆっくりと封筒にハサミを入れた。

「……江戸川君?」

 封筒の向こうにいたコナンと目が合ったと思った瞬間、それらは軽やかな音を立てて机の上に滑っていく。懐かしさを誘ういくつもの写真だった。



(2023.2.19)

【TOP PAGE】