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 大晦日の夜の空気は、つんと痛い。

「まさか本当に博士が寝ちまうなんてな」

 昼間に会った時と同じマフラーを巻いたコナンが、哀の隣を歩きながら笑った。

「テレビも消してしまったし、夕飯の片付けしてまったりしていたら、あっという間にぐっすりよ」

 リビングのソファーでいびきを立ててしまった博士に、風邪をひかないように毛布を掛けてこっそり出てきた哀が言うと、コナンは「へえ」とうなずき、哀を見た。

「なぜ?」
「え?」
「テレビを消したって、テレビ好きの博士にしては珍しいからさ」

 コナンからの指摘に、哀は言葉を失った。数時間前にテレビに映し出されたものとアナウンサーの声が、脳にこびりついたまま剥がれない。哀はコナンから視線を逸らす。ブーツを履いた足元と様々なライトに映し出されたアスファルトが視界に映った。
 住宅街を抜けて大通りに出ると、真夜中にも関わらず車も人も多い。狭い歩道で人とぶつかりそうになり、哀が避けようとしたのと同時にコナンの手が哀の肩に触れた。

「大丈夫か?」
「え、ええ……」

 コート越しに触れた手のひらの感触に、遠い夏が頭の隅をかすめた。熱くなった頬を隠すようにマフラーに口元をうずめ、それでもいたたまれなくなって思わず憎まれ口を叩く。

「あなた、初詣を他に誘える人はいないの?」

 哀の低い声に、瞬きを数回繰り返したコナンは、ふっと笑った。

「そんなのいないよ」
「……好きな人、とか」

 質問を重ねながら、何をやっているんだろうと哀は思う。マフラーの下に溜まっていく二酸化炭素が熱い。
 三年前の夏、たった一度きりの夜。確かに哀はコナンと繋がったけれど、気持ちを通じ合わせたわけではない。中学生の家出に近い、特殊な環境下に置かれた過ちだったのだと思う。少なくとも、コナンにとっては。

「まさか、灰原と恋バナをできるとは思わなかったよ」

 車道を走る車のライトが、冷たい空気の下に舞うミクロサイズの浮遊物と一緒に、コナンの横顔を白く照らした。

「好きな人、ね……」

 コナンの自嘲じみた独り言が、冷たい空気に沈んでいった。
 神社に近づくにつれて、人の数が多くなっていった。暗がりの中でさまざまなコートが薄い照明の下で色を放っている。
 どこかから除夜の鐘の音が響いた。もうそんな時間なのかとコートのポケットから取り出したスマートフォンを確認すると、年越しまであと二十分を切っている。

「恋をした事は、きっとあるんだと思う」

 神社の参拝列の最後尾に立ちながら、コナンは哀を見た。

「俺のココ」

 そして、コナンの長い指が、彼のこめかみを指す。

「色々あって欠損しちまって、人の持つ感情が一般論にしかならないんだ」

 コナンの記憶喪失については、哀はもちろん知っていた。しかし、それをコナンの口から聞いたのも、そしてそれがどのような形でコナン自身に作用しているのかを聞いたのも、初めてだった。

「それは、つまり……、喜怒哀楽が薄れてしまったということ?」
「そうなるのかな」

 かつては真実を暴く為に躍起になっていたコナンが、探偵と名乗らなくなった理由。
 鐘の音が冷たい空気を震わせている。新年を迎える瞬間を楽しみに待つ人々の声が、混ざり合っていく。それらを上書きするような地響きと共に、空が一瞬にして明るくなった。

「わあ、花火だ!」

 近くにいた子供の声が高く響いた。
 夜空を照らした光はやがてぱらぱらと散っていき、それを待たずにさらに花が舞い上がる。ブーツを履いた足元から音という振動を受けながら、新年を祝っている。
 次第に光から零れた煙が乾いた風と共に流れてきた。たちまち辺りに火薬の匂いが充満していく。
 途端に、哀は三年前の夏の出来事を鮮明に思い出した。浴衣のレンタルショップ店員の笑顔、見覚えの屋台の名前に、ラブホテルのインテリア。哀の浴衣を丁寧に剥がしたコナンの指先。
 ジャリ、という砂の音で哀は我に返る。年が明けた事によって参拝列が動き始めたのだ。

「灰原……」

 ふと弱々しい声が隣から響き、哀はコナンを見た。参道にあるわずかな照明が映すコナンの頬は、やたらと青白い。
 後ろに並んでいるカップルが邪魔そうに嘆息したのが聞こえ、哀は慌ててコナンを連れて鳥居を出た。

「どうしたの?」

 息を張り詰めたようなコナンの表情に、哀は動揺をした。
 ジャリジャリと砂の音が重なっていく。参拝者は後を絶たない。輝かしい一年の始まり、瞼の裏に映った花火はいったいいつのものだろう。

「江戸川君……?」

 返事のないコナンの顔を覗き込もうとした途端、肩に冷たい重みが乗ってきた。コナンの頭だった。

「助けて、灰原……」

 まだかすかに残る火薬の匂いと共に、三年前の熱が喉元に込み上がってきて、目頭が熱くなった。この苦しみを抱えているのは自分だけだといい。
 それから、交わす言葉は失われたまま、神社に向かう人々の高揚感の隙間を抜けるように二人で自宅へと歩いた。
 その後の冬休みのあいだ、コナンが哀を図書館に誘ってくる事はなくなり、そして三学期の始業式になってもコナンは姿を見せなかった。



(2022.12.31)

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