工藤邸のキッチンに哀が立っている。懐かしさを覚える光景の中、コナンはキッチンの入り口の冷たい床の上に座って壁に寄りかかり、ただじっと彼女の姿を眺めていた。
手際の良さは昔のままだ。リズムよく音が鳴る包丁の音、卵が割れる音、冷蔵庫の扉を閉める音。
「あなた、熱があるんだからちゃんと温まった方がいいわ」
「だから毛布被ってるじゃねーか」
「減らず口は相変わらずね」
呆れたように哀はほんの少しだけ微笑みを浮かべる。
哀の傘に入れてもらいながら工藤邸に帰ったコナンは、びしょ濡れである事を哀に叱られ、先ほどシャワーを浴びて着替えたばかりだった。確かに哀の言う通り、コナンは微熱気味で、更に最近のスキャンダルで仕事が溜まり、寝不足でもあった。
次第にキッチンには出汁の香りが漂い、コナンは深呼吸をする。
「おまえは微熱と過労で倒れている男がいたら、そうやってすぐに世話を焼くのか」
毛布の感触を確かめながらコナンが言うと、哀は振り向き、コナンを見下ろした。
「ずいぶんと意地悪な言い方をするのね」
「ああ。俺はおまえが思うほど優しくもねーし、一度恨んだら根に持つタイプだ」
哀が鍋の火を消し、コナンの隣にそっと座った。換気扇の音が心地よく鳴る。哀の気配を右側に感じながら、コナンは言葉を続ける。
「そうだな…。前におまえの言った通り、俺はおまえを恨んでるよ」
コナンが言うと、哀は口をつぐみ、小さく息を吐いた後、まっすぐ前を向いたままうなずく。
「そうね。私は許されない事をしたって分かっている」
コナンは毛布を握りながら、哀の横顔を見た。白い肌に高い鼻、日本人離れした顔立ちはどこか涼しげで、でもコナンはその中身を知っている。その心の温度を知っている。
「あのさ、哀。さっきおまえは聞いたよな。俺が探偵になりたかったのか」
十六歳になったばかりの春の終わり、蘭と再会して心に芽生えた未来。そうすることでしか生きていけないと思った。
工藤新一を捨てて江戸川コナンとして生きる事は苦しかった。その事実から目を背けていた。自分が自分である為に。
「本当の事を言うと、よく分からないんだ」
江戸川コナンとして生きていく覚悟を持った十歳の頃、工藤新一と同じ人生はまっぴらだと思ったのだ。二周目の人生の中でもう一人の自分に振り回されるなんてごめんだった。それでも結局消えなかった。蘭を好きだった気持ちも、組織との対決も、哀に出会って戸惑った過去も、すべて工藤新一であって、そして江戸川コナンだった。
「だけどおまえの言葉が頭から離れなかったんだ…」
タイルの床が足や腰を冷やす。毛布を被っている自分とは違い、哀は大丈夫なのかと気になって彼女に顔を向ける。哀は相変わらず横顔しか見せない。
「おまえを恨んで憎んでいたのに、同じくらい、俺はおまえを好きだ。…ずっと、好きなんだ」
愛情と憎悪は対義語ではない。身体の中の同じ場所に存在するものだ。一歩間違えれば先日出会ったストーカーのように、毒にもなりうるもの。それでも哀を好きだった。心の奥底に閉じ込めていた感情だった。こんなに苦しいのに、また裏切られるかもしれないのに、どうかしている。まるで病気だ。
コナンの視線から逃れるようにしていた哀が、ゆっくりと顔を向けた。信じられないものに出会ったような眉をしかめた表情に、コナンはぷっと吹き出す。
「…なんていう顔してんだよ」
「だって…、あなた正気?」
コナンは被っていた毛布をそっと哀にも分け与える。二人で毛布を被った為、二人の距離はぎゅっと縮まる。彼女の睫毛が震えているのもはっきり見えて、コナンは目を閉じた。
「正気なわけがない。おまえを好きになってから、俺はオカシイよ」
包帯の巻かれた左手で彼女の頬に触れる。ひんやりとした感触を指先は覚えていた。途端に彼女の全てを身体全て思い出し、コナンは戸惑いながらも指先で頬を辿り、額に触れ、鼻筋に触れ、最後に彼女の唇に触れた。冷たい体温の中で、そこだけ熱を持っていた。彼女の心のようだった。
哀は表情を変えないまま、ただコナンを見つめている。指先の行き場を失くしたコナンは、その手で彼女の肩に触れ、背中に触れ、華奢な身体をゆっくりと抱きしめる。毛布の中で、再び世界を遮断する。
「なぁ哀。俺を幸せにするとかそんなんじゃなくて、おまえはどうしたいんだ? 俺はどんな状況になったって、さっき言った事が本当だ。だから、おまえの願いを聞きたい」
彼女のうるんだ瞳の中に自分の影が映り、それだけで満たされる気がした。彼女の世界には確かに自分は存在している。
きっとどんな人生を選択しても後悔はつきまとうのだろう。空虚のない人生は案外味気ないものなのかもしれない。哀との未来を手に入れたって、中学生の頃の自分みたいに感情の不安定さに思い悩む日が来るのだろう。日々にある幸福に物足りなさを感じて嘆く事もあるだろう。
それでも。
「……私も、あなたと家族になりたい」
大きな瞳から大粒の涙がこぼれるのとほぼ同時に、コナンは哀を力強く抱きしめた。
ずっと一人で戦っていた彼女の孤独が、体温を通じて流れてきてぎゅっと心が潰されそうだ。自分は一体彼女の何を知っていたというのだろうか。守っているつもりで、何一つ分かっていなかった。それでも、未来を変えることはできる。
哀のいない世界なんて最初からありえないのだ。コナンは哀の肩に額を押し付ける。自分の全てが彼女に溶けていけばいいと思った。細胞ひとつ残さず、全部与えてやりたかった。
「哀。これからの事は一緒に考えよう。いろんな家族の形があるけれど、おまえの望むものがあるならそれも一緒に考えて、話し合おう」
涙声でコナンがつぶやくと、コナンの腕の中で哀はただただ頭を縦に振った。
どんなに辛い事があっても、苦しい事があっても、逃げる事はもう許されない。優しさに溺れてはいけない。
しんと静まり返ったキッチンの中で、哀のすすり泣く声だけが響いた。七年前、哀は自分を捨てたのかもしれない。だけど哀は苦しんでいた。これ以上彼女を責めるつもりもないし、本来は広い心を持ってそれらすべて許すべきなのかもしれない。
「とりあえず、ちょっと腹が減ったからさ。おまえが作った飯を久々に食いたいな」
哀をなだめるように背中をぽんぽんと叩いたあと、コナンが言うと哀が小さく笑った。ああ、そうだ。この笑顔に会いたかった。コナンは哀の両手を手にとり、ゆっくりと立ち上がる。つられて立ち上がった哀をもう一度抱きしめる。身長差も胸に広がる感情も、中学生の頃とは違った。ただがむしゃらに彼女を欲した頃とは違う。
でも本当の自分は欲深いし、嫉妬深いし、子供っぽいし、簡単に彼女を許せるほど器が大きいわけでもない。それら全てを含めて彼女と運命を共にするのだ。
もしも願いが叶うなら。