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 国によって空港の香りが違うらしい。ちなみに日本の空港には醤油の香りが漂っているらしいが、日本人であるコナンにはいまいち分からない。

「哀ちゃん、この前はびっくりしたよね。コナン君の家の前でばったり会って」
「ええ、本当に。歩美も江戸川君のお見舞いに行ってたんだってね」
「そうなの。あの日、平日だったけれど、哀ちゃん仕事じゃなかったの?」
「あの日はスケジュールが空いてて。最近働きづめだったから、有休をもらっていたのよ」
「なら哀ちゃんとお茶にでも行けばよかったな。コナン君のお見舞いに行っても結局喧嘩になるし」

 先ほどスーツケースを預けた歩美は、身軽そうに笑顔を見せる。国際線の指定されたゲート前で哀と話を弾ませているのを、コナンはぼんやりと眺めていた。

「…喧嘩って何ですか、コナン君」

 コナンの隣で光彦が低い声でつぶやき、コナンは嘆息しながら否定する。

「喧嘩じゃねーよ、歩美が一方的に怒っただけだ」
「つまり、コナン君が歩美ちゃんを怒らせたんですね」

 話の着地点に納得できず、コナンが顔をしかめていると、光彦が「それより、」と話題を変えた。

「聞きましたよコナン君。灰原さんと復縁したらしいじゃないですか」

 歩美の留学については、コナンが田中アナウンサーのストーカー事件で忙しくしている間に少年探偵団の中で語られていたらしい。今日、歩美は日本を発つ。歩美を見送りに四人で来たのはいいが、先ほどから元太が一言も発していないのが少々気がかりだった。

「おまえらには心配かけたと思ってる。色々とありがとな」
「素直なコナン君っていうのも、なんだか違うんですよね…」

 相変わらずの皮肉っぷりで、光彦は意地悪に笑う。

「でも僕はコナン君がどんな風に苦しんだか見てきたので。心から祝福していますよ」

 眩しそうに目の前にいる哀と歩美を眺めながら光彦が言うので、コナンはゆっくりとうなずいた。哀がいなくなれば世界が終わると思っていたが、そうではなかった。確かに自分にとっては哀が必要だったが、それ以外にも自分を形成していた存在は多くあった。やはり自分は恵まれている。むしろ、工藤新一だった頃よりも大切な存在は増えている。

「みんな、お見送りありがとう。私、そろそろ行かなくちゃ」

 腕時計を気にしながら、歩美がコナン達に顔を向けた。細い手首も、首元に覗く鎖骨も、ピアスが光る耳元も、もう子供のそれじゃない。複雑な気持ちでコナンは歩美を見つめた。彼女が日本を発つなんて信じられなかった。
 お元気で、というのもまた違う気がした。永遠の別れではないのだ。
 コナンが言葉を探していると、

「――歩美!」

 これまで静かだった元太がようやく声をあげ、光彦の隣から歩美の前まで駆け寄った。そして歩美の身長に合わせるように軽くかがみ、歩美にしか聞こえない言葉を囁いている。これまで溌剌としていた歩美が途端に表情を崩し、今にも泣きそうな顔で必死になって元太の言葉に応えていた。

「僕達は先に行きましょうか」

 光彦の声がドラマのワンシーンのような光景から現実へと引き戻し、コナンはうなずいて哀と一緒に空港の出口へと向かう。

「人の感情って単純じゃないわよね」

 コナンの隣を歩きながら哀は独り言のようにつぶやいた。
 そうだ、人の感情は他人には見えない。いつも笑顔でいる人間の心に闇が潜む事があるように。

「小嶋君、大丈夫かしら」
「…大丈夫だよ、元太なら」

 だから人は言葉を使うのだろう。誰にも聞こえないほどの感情が悲鳴を上げ出さないうちに。
 コナンが哀に微笑んでいると、横から光彦が茶々を入れる。

「いいですね、二人とも。僕も彼女欲しいなぁ」
「あら、円谷君ならすぐにできるでしょ。すごくモテるって江戸川君から聞いたわよ」
「灰原さん、そうやって情報共有できるような相手はなかなかできるものじゃないんですよ」

 小学生の頃に見せたような表情で光彦は笑った。
 空港の外に出ると、途端に青空が広がる。空港の傍にある海から運ばれて来る潮風が前髪を揺らす。世界がこんなにも広い事を改めて知る。



 哀との関係を取り戻したところで日常は変わらない。
 四針縫った左手の包帯がようやく取れた頃、久しぶりに小五郎と一緒に仕事をした。

「あの子と落ち着いたらしいじゃねーか」

 毛利探偵事務所で書類を確認している合間に、煙草に火をつけた小五郎が唐突にそう切り出し、来客用のソファーに座っていたコナンは顔をあげる。

「ええ? おじさん誰から聞いたんだよ?」
「蘭だな」
「ああ、そういえばこの前哀が蘭姉ちゃんの家に遊びに行くって言ってたっけ…」

 納得しながらコナンはひとつ書類を鞄におさめる。

「おまえ、その割にはあまり浮かれている感じしねーな」

 昔から変わらない煙草の香りが事務所内に漂う。革地のソファーも大きな窓もアルミ製の机も、何もかもが変わらなくて、ここに来ると初心に戻れる気がした。だからコナンは小五郎との仕事が好きだ。

「うーん…。浮かれるっていうのもちょっとね…」
「なんでだよ? あんなにボロボロになるくらい好きだった女だろ」

 そしてこの事務所は、今でも人生で一番どん底だった数日間をも思い出す。それと同時に温もりを確認できるのだ。家族のように温かい空間を。

「おじさん、俺ちょっとやばいかも。今も一緒に暮らしてるわけじゃねーからさ、仕事していない時とか、逐一あいつの事が気になるの。あいつが家を出て行ったのって、ちょっとトラウマになっているかもしれねー…」

 ずるずるとソファーの背もたれになだれながら、コナンは大きくため息をついた。
 再び恋人になりましょうとなって、そこで終わりではなかった。今でも哀が消えた瞬間の雨の日の事は鮮明に脳裏に蘇る。むしろ、哀と再会する以前よりも思い出す事が多くなり、また彼女がいなくなるのではないかとの疑念が胸を支配する。
 格好悪いから彼女に見せたくない。それでも夜には必ず彼女にメールをして、メールアプリで既読マークがつかなければすかさず電話をしてしまうくらいには、追いつめられているのを自覚している。

「コナン、甘えんなよ」

 煙草を灰皿に押しつけながら、小五郎は厳しい表情をコナンに向けた。

「蘭だっておまえが消えてからずっと苦しんでいたのを、おまえは知っているだろ。それでも蘭は耐えたんだ。おまえが耐えられねーでどうする」

 珍しく強い口調の小五郎に、コナンはソファーの上で座り直し、まっすぐに小五郎を見た。小五郎は定位置である机の椅子に座ったまま、再び書類に手を伸ばした。

「…そうだね」

 小五郎の言う二人称は、江戸川コナンではない。これまで誤魔化してきたコナンも、今ばかりははぐらかせなかった。逃げてはいけなかった。

「ありがとう、おじさん」

 許されない事案を抱えているのは、哀だけではない。自分もだった。コナンが小五郎につぶやくと、小五郎は面白くなさそうに「ふん…」とうなずく。大人になっても自分を叱ってくれる存在のありがたさを感じた。



 仕事が終わった午後八時、探偵事務所の階段を降りながらプライベートのスマートフォンを手に取ると、メールが一通。哀からだった。哀も仕事が早く終わったとの事。そういえば明日は土曜日だ。
 ビルを出ると湿った空気が頬を撫でた。明日は雨が降るかもしれない。でも恐れる事はない。
 江戸川コナンはもうすぐ二十三歳になる。だけどその前に、今夜は哀と一緒に過ごしたい。コナンはスマートフォンで哀に電話をかける。

『もしもし』

 少し低めの彼女の声に血管が詰まるような胸の痛みを覚える。涙腺がぐっと痛む感覚すら幸せに思えて、コナンは帰路を急いだ。