3-14

 世間の空気の中に馴染まない感覚を、昔から知っていたのだ。

「なぁ工藤。なんでおまえって一人暮らしなんだ?」

 高校の体育の授業の後、更衣室でシャツに袖を通していると、隣にいたクラスメイトが聞いてきて、さらにその後ろにいたバスケ部の男子が割り込んできた。

「馬鹿、おめー、工藤ん家は特殊だろうが」
「特殊?」
「だってほら、あれだろ? 父ちゃんは有名な作家で、母ちゃんは元女優の藤峰有希子だろ?」

 両親の職業と自分は関係ない。両親を理由にいじめられたり仲間外れにされるような事はなかったが、それでもクラスメイトとの会話の端々には工藤新一の両親が特別である事が含まれ、自分が普通ではない事を嫌でも自覚した。
 自分で選んだ生活だった。両親は自分を見捨ててはいないし、特に母親からの愛情はうっとおしいほど感じる。大切に育てられているのだと思う。読みたい本があれば惜しみなく買い与えてくれたし、湧き上がる好奇心には知識豊富な父親がいつも応えてくれた。恵まれている事は知っている。
 両親から一緒にアメリカに渡らないかと提案された時、新一は断固と拒否した。幼い頃から恋心を抱いていた幼馴染が頭に浮かんだからだった。選択をするという事は、失うという事だ。幼い頃の新一にはまだそれを理解できなかった。



 雨音に意識を取り戻した。
 左手がじんじんと神経まるごと痛むのは今に始まった話ではない。関節痛を覚えながら天井を見つめる。見慣れたリビングのソファーの上。やけに温かいと思ったら、身体には毛布がかけられていた。それにしては燃えるように頬が熱く、視界がチカチカする。
 ずいぶんと昔の事を思い出していた。まだ江戸川コナンと名乗る前の話。一度目の高校生活。世界の闇を知らなかった頃。自分自身を犠牲にしてまで守られる幸せをまだ知らなかった。

「哀……?」

 ゆっくりとソファーの上で重たい身体を起こす。そうだ、先ほどまでこの家には哀がいたはずだった。
 テレビでは田中アナウンサーとの熱愛報道が否定され、そのストーカーに刺されたコナンは簡単に外を出歩けないはずだった。それを心配した歩美が見舞いにきて、そして哀が訪ねてきた。
 語られた昔のはなし。

「哀? いるんだろ?」

 ざわりと空気が鳴る感覚に身に覚えがあり、鳥肌が立った。しんとした部屋の外で降り続ける雨。
 コナンは立ち上がり、痛む左手に気付かないふりしてキッチンを覗く。書斎のドアを開け、誰もいない事を確認してから、階段を上がった。ちょっとした事で息が切れる。

「哀?」

 彼女の姿を見たのは都合のいい夢だったのだろうか。だとしたら、どこからが夢だというのだろう。歩美が帰った後から? 哀が東京に戻って来た時から? それとも、哀と出会った日からかもしれない。
 浅い呼吸を繰り返しながら、コナンは寝室のドアを開けるが、哀の姿があるはずもなかった。しびれる瞼を無理やり閉じる。これまでの出来事を頭の中で整理する。
 江戸川コナンの存在を示す事ができるのは、灰原哀の存在だけだ。誰に何と言われても、それだけは変わらない。
 コナンは引きずるように足を前に踏み出し、階段を降りてそのまま玄関を出た。雨が降っているのも気にせずに隣の家へと駆け込む。

「博士!」

 今朝の天気予報では一日晴れマークが表示されていたはずだった。予報は外れて、雨の勢いがひどくなる。

「どうしたんじゃ、コナン君?」

 チャイムを押し続けるコナンに驚いたように、博士がドアを開けた。

「哀…灰原は、灰原、来ているんだろ?」

 声を荒げるコナンに、博士は眉をしかめて、はて…とつぶやく。

「今日は平日じゃろう。そのような約束はしていないはずじゃが…」

 いつかと同じような返答に、コナンは地団駄を踏みたくなった。曜日なんて関係ない。この目で確かに彼女を見て、本当に久しぶりに彼女の前髪に触れた。華奢な肩に触れた。彼女を抱き寄せて、二人で泣いたのだ。
 コナンは博士に軽く礼を言い、阿笠邸の門の外に出た。雨が容赦なくコナンの前髪を濡らす。コナンは眼鏡を外し、水滴を拭った。時間を見ても、自分が眠っていたのはそう長くない。米花駅に向かってコナンは走り出した。
 夕方の街中、まだ会社員はさほど多くないが、買い物帰りの主婦や学校帰りの中学生が、奇妙そうに傘もささずに走るコナンに視線を向ける。

「…江戸川君?」

 まだ駅まで距離があるスーパーの前で、望んでいた声が自分の名前を呼んだ。ようやく輪郭を取り戻した気がして、コナンは顔をあげる。

「あなた何をしているの?」

 先ほど見た哀の姿と同じだった。目元が赤いのも自分ときっと同じだ。コナンはほっと息をつき、哀の手元に視線を移す。そこにはスーパーで買ったであろうビニル袋があった。
 コナンはそのまま脱力してしゃがみ込む。通行人の目など気にしていられなかった。

「また、いなくなったのかと思った…」

 コナンがそれだけつぶやくと、哀はゆっくりと赤い傘をコナンの上にかざす。

「ごめんなさい……」

 頭上に落ちてきた言葉に、コナンは再び涙ぐみ、誤魔化すように傘の下でうつむいた。