3-13

 山上から陸地へと急降下した時に感じるような気圧の変化を感じ、耳に違和感を覚えた。途端にテレビから雑音が聞こえ、コナンは震える足でゆっくりとテーブルまで歩き、リモコンで今度こそテレビの電源を落とす。
 そしてソファーに座る哀を正面から見つめた。

「俺を、見くびるんじゃねぇ…」

 詰まった喉から出た声はかすれていて、彼女にどれだけ届いたのか分からない。しかし哀はゆっくりと顔をあげ、コナンを見た。その頬には涙の筋が見え、更に心臓に痛みが走った。

「俺の幸せは俺が決める。あの頃、おまえがいたらそれでよかったんだ」
「無理だって言ったでしょう」
「どうして!」

 今でも心の中には十五歳のコナンが住みつき、悲鳴をあげる。傷は癒えない。恐怖は消えない。
 叫ぶようにコナンが声を張り上げると、哀は肩を震わせたまま涙をこぼす。泣きたいのはこっちだとコナンは唇を噛む。哀の頬を伝った涙がそのまま哀の膝元へと落ち、デニムの色を変えた。

「私…」

 哀が両手で顔を覆うが、それでも涙が溢れていた。コナンはそっと哀の傍に寄る。哀の息遣いと共に悲しみがひんやりと伝わり、思わず手を伸ばし、彼女の震える肩に触れた。
 その華奢さに驚くが、そのまま彼女の言葉を待つ。

「私、子供を産めないかもしれないの……」

 ポタポタと、不規則なリズムで涙が落ちる。コナンは顔を覆う哀の手の甲に触れた。

「…哀」

 彼女をなだめるようにそう呼んだ。無意識だった。

「どういう事だ?」

 半ば強引に哀の手を掴み、彼女の顔を覗きこんだ。涙で顔を濡らした哀が、苦しそうに呼吸をし、鼻をすする。

「身体の調子がおかしくて…。基礎体温も乱れているし、大人だった時には正常だった生理周期も乱れているし、…病院に行ったの」

 初めて聞く話にコナンは動揺をするが、それよりも先に哀を泣きやませたいと思った。

「それって、いつ頃の話だ?」
「中学二年生の、冬……」

 そういえば哀は、いつも体温計と共に目を覚ましていた。何事もなさそうに過ごしていた彼女に気付かなかった。何も訊こうとしなかった。
 哀は昔からそうだったではないか。いつもコナンの事を考えていた。自分の感情よりも先にコナンの幸せを願っていた。――だから、あの時哀はコナンの傍から離れたのか。

「ずっと、…ずっと俺に黙っていたのか」
「だって……」

 訴えるように大きな瞳をまっすぐに向けた哀が、泣きじゃくるように言った。

「あなたはいつだって普通の家族に憧れていたから…」

 今度こそ耐えきれなくなったようにソファーの上で膝を抱えて泣く哀を、コナンはソファーから奪うようにして彼女の身体を抱き寄せた。彼女の喉元からひゅーひゅーと音が鳴り、嗚咽が漏れる。

「哀……」

 右手で彼女の頭を抱え、自分のセーターの胸元で彼女の涙を拭う。痛む左手で華奢な背中を抱きしめる。目の前に広がったのは再び哀のいない空間。だけど彼女の温もりを感じる。それだけで視界が滲んだ。

「ごめん……」

 今になって頭の中が真っ白になる。それ以上言葉なんて出てくるはずがなかった。彼女に償える方法なんて見つけられなかった。それでも彼女をなだめるように、ただ抱きしめた。
 中学生の頃の自分は、何も分かっていなかった。彼女の苦しみを何一つ汲み取っていなかった。
 哀の言う普通が何か分からない。世界に二人きりだなんてありえない。手も届かないほどの大きな星の中で、多くの事に守られ、支えられ、影響されながら生きてきた。だからこそ分かるのだ。

「ごめんな……」

 幸せとは、哀が決め付けている普通のものだけではない。

「でも哀、聞いてくれ。子供がいなくたって、結婚できなくたって、家族じゃなくたって、幸せになれる方法はいくらでもあるんだ」

 泣き続ける哀の前髪に触れる。柔らかい癖っ毛は以前のままだった。

「俺は誰でもいいわけじゃない。ただの家族が欲しいわけじゃない」

 テレビが消えた今、リビングには空調の音だけが響く。

「俺が欲しいのは、おまえとの未来だ」

 中学生の頃、いつも何かに不安がっていた。嘘をつき続ける自分に、哀の本当の少女時代を知らない事実に、本当の自分が両親と離れていた過去に、傷ついていた。だけど幸せだった。
 おはようの挨拶から夜眠りにつく瞬間まで、彼女の傍にいられた日々がとても幸せだったのだ。