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『探偵の江戸川コナンさんと熱愛報道があった田中レイカアナウンサーが、報道内容は事実無根である事を日売テレビが発表しました』

 先ほど消しそびれたテレビで、ワイドショーの司会者が語っている。

『なんと田中アナウンサーは、ストーカー被害について江戸川探偵に相談していたところを撮られたとの事ですね』
『しかし探偵と司会者が仲良くマンションに入って行きますかねぇ?』
『日売テレビによると、江戸川さんはアナウンサーである田中アナを気遣って事務所や公共の場を避けたみたいですね。この事件の一連から、ストーカー被害があった事は本当のようですし』

 スタジオのコメンテーター達が好き勝手に話を膨らませている。発言の責任を誰も取らない井戸端会議のようだ。真実は誰にも分からない。カメラの前でいつも笑顔で原稿を読む田中レイカが日頃どれだけ恐怖と戦っていたか、誰も知らない。

「くだらないわね」

 先ほどまで歩美が座っていた場所に、今度は哀が座っている。歩美が来た時とは違い、コナンはお茶を淹れる事もせずにただ呆然と壁を背にして突っ立っていた。

「江戸川君がどんな覚悟を持って彼女を守ったのか、誰にも分からないのに」

 足を組んで、その上に頬杖を突くように、どこか冷めた目で哀は語る。

「……灰原、おまえ、何しに来たんだ」

 歩美が帰ったすぐ後に訊ねてきた哀は、玄関先でコナンの顔を見てからほっと息をついた。きっと歩美と同様、自分を心配して訪ねてきたのだと知り、コナンは思わず中に入るように促してしまった。歩美と哀では、その意味合いは全く異なるというのに。
 この空間に哀がいるという事。目に見えないほどのミクロの中で化学反応を起こしたように、空気がピリリと震える。

「昔…」

 コナンの問いに応えるように、テレビに視線を向けながら哀はつぶやいた。

「嘘をつかないようにしようって言ったわよね。私達の存在自体が嘘だらけだから、これ以上はやめようって、あなたは言ったわ」
「………」

 これまで過去の話など持ち出さなかったくせに、突然何を言い出すのだろう。コナンは哀を見るが、その横顔からは何も読めない。

「ねぇ、江戸川君」

 家に入ってから一度も視線を合わせなかった哀が、ようやくコナンを見た。透明の中に潜む緑。何度この瞳に見つめられただろう。この胸に眠る真実を暴くのは自分ではない。きっと彼女だ。

「あなた、本当に探偵になりたかったの?」

 どくんと心臓に痛みが走った。コナンは包帯の巻かれた左手で胸元を抑える。喉元よりもっと奥の、胃の底が熱く、ぐらりと視界が回るのをどうにかこらえる。

「な…んで……」

 彼女の顔も見られない。自分の心の中だって、いつも直視できずにいる。
 ――なぜおまえがそれを問う?
 一度は夢をみた世界だ。本当の自分、工藤新一としての自分。ありのままで、偽りなどない自分。しょせん江戸川コナンは工藤新一のかりそめだ。それでも哀がいたから江戸川コナンは生まれ、存在し続け、大人になった。彼女の存在は自分の道標だ。
 その道筋を失った時、迷子になった。本物の子供のようにコナンは涙を流したのだ。哀がいない夜、自分が孤独であることを思い知った。手探りで探しても、自分という人間がどこにいるのか分からず、枕に顔を押し付けて声をあげて泣いた。たった一度だけ、十六歳になったばかりの頃の出来事だった。

「何なんだよ、おまえ…」

 真っ暗闇の中で枕を濡らしながら、哀を忘れようとした。高校生活を送りながら、探偵としてまずは校内での活動を始めた。依頼者は女子ばかりで、可愛らしい笑顔の下には下心が見えて余計に虚無感に襲われた。
 それでも、誰に誤解をされても、世間にどう思われても、哀の言葉が自分の全てを駆り立てていた。哀がいない世界で、せめて自分の手の届く範囲を守ろうと、そう誓ったのに。

 ――私にはあなたの願いを叶えられない

 人間とは強欲だ。ひとつ手に入れたら、更に次の幸せを欲しくなる。更なる願いを叶えたくなる。
 コナンの望み。哀に分かるわけがなかった。でもそれを言葉にしなかった。安っぽいセリフだけを中途半端に並べて、彼女が何を思っていたのか、どう感じていたのか、考えもしなかった。子供だった。
 だけど、哀だって何ひとつ言葉にしないまま、勝手に消えたんじゃないか。

「おまえは俺をどうしたいんだよ…!」

 喉の奥が詰まって、上手く声が出ない。言葉の疎通ができない。しかしコナンの言葉に哀はぎゅっと眉を寄せ、瞼を伏せた。
 淡いピンク色の唇が、言葉を紡ごうと震える。彼女の言葉を待つ間、とてつもなく長い時間のように思った。

「わ、私だって…」

 彼女の震える声と共に、耳鳴りが鼓膜を刺激する。もうそれ以外、家の外の音も、テレビの音ですら何も聞こえない。この世界にはたった二人きり。最初からそうだった。あの頃はそれを望んでいた。でも今は違う。

「私だって、あなたを守りたかった……」

 足元がぐらつき、コナンはとっさに背中で壁に寄りかかる。ひどく冷たい感触に身震いをした。

「あなたが幸せになれれば、それでよかったの……」

 そのまま消えてしまいそうなほど小さな声の中に、あの頃の熱が籠っているように思えた。倒れそうになる身体に力を込め、コナンは両手を握りしめる。左手に痛みが走るほど、自分の存在をここに感じた。