3-11

 柔らかい日差しが大きな窓から部屋へと差し込むが、まだ暖房を手放せない。

『先日、探偵の江戸川コナンさんが都内のコインパーキングで刺された事件について、殺人未遂容疑で逮捕された無職の○山△男容疑者が、ストーカー規制法違反の疑いで再逮捕されました』

 リビング内で流れているテレビに目を向けた歩美が盛大にため息をつき、ソファーに座った。

「本当に心配したんだからね、コナン君」
「悪かったって」

 結論から言うと、ストーカー男に刺された左手を四針縫う羽目になり、おかげで大学の卒業式を欠席するという事態になってしまった。かの昔に便利な道具達に頼りすぎてしまった事もあり、大人になった今の身体能力はそれほど高くはない。それでも先に身体が動いてしまうのは、職業病なのか性格なのか。やはり昔世話になった公安やFBIの知り合い達に護身術を真面目に学ぶべきだったのかもしれない。

「左手、大丈夫なの? 後遺症とか残らないの?」
「ああ、まだ検査しねーと詳しく分からないみたいだけど、今のところ感覚も問題ねーし、大丈夫じゃねーかな」
「コナン君って、悪運強いよね」

 歩美が呆れかえったように肩をすくめる。
 卒業式から一週間が経っていた。

『警察の調べによると、○山容疑者は、この一年の間に数十回に渡って読売テレビの田中レイカアナウンサーの自宅前で待ち伏せするなど、ストーカー行為を繰り返したという事です』

 コナンが警察病院に運ばれた事を、博士を通じてすぐに少年探偵団に広まり、すでに光彦からはこってりと叱られ済みだ。

「せっかく卒業式の日にみんなで飲もうって思っていたのになぁ」
「またいつでも集まれるって」

 ぷっくりと頬を膨らませる歩美にコナンが苦笑すると、歩美は視線を落として表情を曇らせた。

「歩美?」

 空気が変わった事を疑問に思い、コナンが歩美の名前を呼ぶと、歩美は顔をあげてまっすぐにコナンを見る。

「コナン君」

 先ほどのような高い声ではなく、いつもよりも低めの声で、歩美ははっきりとした口調でつぶやいた。ただ事ではなさそうな雰囲気に、コナンの背筋が自然に伸びる。

「なんだ?」
「私、来月にはいなくなるよ」

 文法が整っていないように思われる言葉に、コナンは眉をひそめた。

「どういう事だ?」
「あのね、私、留学する事にしたの」
「留学……?」

 大学を卒業した今となっては、次に待っているのは就職という道がほとんどだ。だけどいつからか、歩美から就職活動の話を聞かなくなっていた。気付いていたけれど、それについてコナンから敢えて触れる事はしなかった。どこまで踏み込んでいいのか分からなかったというのも正直なところだった。
 歩美のセリフに、まず頭に思い浮かんだのはただ一人。

「…元太はそれを知ってるのか?」

 歩美が消えたら耐えられないとまで言った彼の事だ。知る権利はあるはずだった。コナンが問うと、歩美は乾いた笑い声を立てた。

「どうしてそれをコナン君が聞くの?」

 機嫌を損ねたように歩美は席を立ち、玄関へ歩く。

「歩美?」
「ねぇコナン君。歩美はちゃんと元太君とも話した。別れた時だって留学を決めた時だって、全部言葉にして、話し合ったの。何でも勝手に決めるコナン君達と一緒にしないで」

 黒いショートブーツを履きながら、歩美はコナンを見上げた。いつの間に彼女はこんな険しい表情をできるようになったのだろう。コナンは生唾を飲み込む。

「歩美はね、コナン君。中学生の頃は、本当にコナン君と哀ちゃんが羨ましかったの」

 ブーツを履いた歩美は振り返り、コナンを見る。ベージュのトレンチコートは歩美のイメージとは違って、尚更気後れした。

「コイビトになれば、言葉を通じなくても何でも分かり合えるんだと思ってた。でも、違うよね」

 そう言い残し、歩美は玄関のドアの向こう側へと消えて行った。
 無機質な音とともに消えた気配の残りを感じ、コナンは黙ったままリビングに戻る。ほのかに紅茶の香りが漂った。コーヒーが苦手な歩美の為に淹れた紅茶の葉は、以前母親が旅行で行ったイギリスの土産で買って来たものだ。
 今頃になって左手に痺れるような痛みを覚える。

『さて、続きはコマーシャルの後で』

 平日の昼間に流れるテレビは、どこのチャンネルもワイドショーばかりだ。うんざりしてテーブルの上にあるリモコンを手に取った時、来訪を知らせるチャイムが鳴り響いた。

「…歩美?」

 コナンはリモコンを戻し、ゆっくりと玄関に戻り、ドアを開ける。

「なんだよ、歩美。忘れ物でもし……」

 セリフを最後まで言えなかったのは、ドアの前に立っていたのが歩美ではなかったからだ。

「こんにちは、江戸川君」

 家に籠っている間に季節が変わったようだった。そこには、生ぬるい風と共に哀が立っていた。