3-10

 日売テレビのアナウンサーである田中レイカから電話があったのは、大学の卒業式を二日後に控えた三月のある日の事だった。

『しばらくセキュリティのあるホテルで暮らす事になりました』

 テレビで聞くような透き通った声で、彼女は電話元でつぶやく。今となってはコナンはもう田中アナウンサーの顔を思い出せないでいた。

『ご連絡が遅くなって申し訳ございませんでした。だけど今回の事をきっかけに、今まで取り合ってくれなかった何度警察や上司にやっと説得することができたんです。ありがとうございました』

 彼女の声を聞きながら、コナンは事務所内の机の上に散らばった書類を整理する。

「いいえ、当然の事をしたまでです。熱愛報道のほうはどうなりそうですか?」
『私、正直に言います。ストーカーに狙われていた事を江戸川さんに相談した事も、ちゃんとテレビで発言します。江戸川さんの顔に泥を塗ったまま終わる事はできません』

 思ってもみなかった言葉に、コナンは書類を持っていた手を止め、もう片方の手でスマートフォンを持ち直した。彼女を侮っていた自分を恥じる。田中はアナウンサーとして真っすぐな心を持つ女性だった。

「僕はただの探偵ですが、あなたはテレビに出る人で、それだけ苦労もあるはずです。あまり無理はしないで」

 コナンはそれだけを伝え、電話を切った。彼女が守られた場所にいるのであれば安心だ。ストーカーが逆上して彼女を襲うような事態は避けているつもりだが、対策を重ねるに越したことはない。
 以前コナンはテレビの収録で田中に会った事があるらしい。記憶を辿るが、やはり思い出す事はできなかった。中学生の頃までの事はさまざまな出来事を情景や香りと共に思い出す事ができるのに、高校生以降は何かが欠落している気がした。ただ単に探偵として本格的に警察や小五郎に関わり忙しい日々を送っていたからかもしれない。でもきっとそれだけではない。
 哀が姿を消してから、世界が色を失った。そして音が消され、静寂さの中にノイズが混じるようになった。息苦しい場所で溺れるようにもがきながら、ただひたすら走ってきた。
 この苦しさも江戸川コナンの一部になる。



 スマートフォンで管理しているタスクに記録された通りに動く自分はまるでロボットのようだ。コナンはコートを羽織って事務所のビルを出る。事務所は日当たりのよい場所のはずなのに、外に出ると更に空の眩しさに目がくらむ。
 車を停めているパーキングまで歩いていた時の事だった。

「江戸川コナンさん?」

 声をかけられ振り向くと、ナイロン地の薄いコートを鳴らしながらコナンをまっすぐに睨む男が立っていた。彼が何者かすぐに察したコナンは、薄く笑う。

「ハジメマシテ。今度は俺をストーキングするつもりですか?」

 両手をポケットに突っ込みながらコナンは男を見据える。田中レイカの悩みの根源。田中とこの男は面識はなく、男は恐らくテレビを介して田中を知り、自宅を突き詰めて朝から彼女を待ち伏せる事数十回。ストーカー規制法に引っかかるが、うまく警察の目をすり抜けているこの男は、一度も警察から警告をされていない。

「てめーのせいでレイカまで穢れてしまった…。レイカをどこにやったんだ!」

 興奮のせいか言葉の端々が聞き取りにくいが、本人はいたって冷静のつもりのようだ。
 もう三月だというのに、頬に触れる風は冷たく、尚更空気がぴりぴりと震えているみたいだった。

「ストーカーさんに教えられるわけがないだろ」
「そんなんじゃない。オレはレイカが好きなだけだ!」
「好きだからと言ってしていい事と悪い事がある事くらい、あなたも知っているはずだ。現に彼女はとても怖がっていた。あなたのその感情は愛情じゃない。ただの独りよがりだ」

 ぱしゃりとコナンが言い切ると、男は頬をひきつらせ、笑う。

「てめーにオレの気持ちなんて分かるわけねぇんだよ!」

 そう言い、コートのポケットからバタフライナイフが出るのをコナンは見逃さなかった。きゃあ、と通行人の悲鳴があがる。とがったナイフの先がこちらに向いた事に気付き、コナンは身を翻したが、とっさに胸元を守った左手に鈍い痛みが刺さる。
 男の言葉に対し、そうだな、とコナンは思う。誰かの気持ちが分かるなんて思い上がりも甚だしい。人の心を読めない事はとても苦しい。理解できない事は悲しい。だけど、だからこそ分かり合えた時はそれらが愛しさに変わる事を、コナンは知っている。