会社の休憩室に設置されている週刊誌では、よく江戸川コナンの名前を見かけた。ある時は難事件を解いた記事、ある時はかつて日本を騒がせた高校生探偵との遠縁の親戚であるとの事、ある時は下世話な女性関係。
「灰原さん、お疲れ様です!」
昼休憩、カフェオレが注がれた紙コップを両手で持った事務員の花野が、ポニーテールを揺らして哀の隣に座った。
「お疲れ様」
「灰原さん、いつもお弁当作ってきてますよね。寮暮らしなのにすごいなー」
「別に、慣れたらどうって事ないわ」
この会社に入社して半年が経ち、ふたつの季節を越えて窓の外では蝉の鳴き声が響いている。クーラーの効きが悪いせいか、湿った空気が部屋を包んでいるけれど、この蒸し暑さはどこか懐かしくも思う。
「ていうか、灰原さんって、東京出身って本当ですか?」
コンビニのビニル袋からパンを取り出しながら、花野が会話を続ける。
「ええ、そうだけど…」
「もったいないなー。灰原さんって、イギリスの高校大学で飛び級して、すっごい優秀なのに、なんでこんな田舎で働いているんですかぁ。東京に帰りたいって思わないんですか?」
ずっとこの土地で暮らしている彼女からのセリフに、哀は笑いながら首を横に振った。
「思わないわ」
「どうして」
「待っている人もいないもの」
口から当然のように飛び出した言葉に、胃のあたりがきゅっと痛くなった。嘘だと思った。恋人だった人はともかく、同じ中学校に通った親友は、きっと今でも自分を覚えている。きっと自分を許してくれる。だからこそ、連絡をとることを躊躇われた。
哀の返事に、同僚は眉根を寄せ、カフェオレを一口飲み込み、哀を見た。
「でも、思い出とか……」
真剣なまなざしでそうつぶやく花野を、哀は心底うらやましいと思った。思い出は美化されると言われているけれど、哀の中では今も切なさと苦しさの混じった時間として、記憶の中で息づいている。
肌を焦がすほどの鋭い夏の日差しの下。通気性の悪いセーラー服。大量の夏休みの宿題を、大きなダイニングテーブルで五人で片付けた。カフェインの香り。彼の好きなコーヒー豆。お揃いで買ったマグカップ。
テーブルの上に置かれた週刊誌の表紙の見出しには、相変わらず世間を賑わせている名探偵の名前が書かれている。今では遠く離れた元恋人。あまりにも陳腐な響きに内心笑いがこみ上げるのを、必死になって抑え、目の前に広げているお弁当の最後のおかずを口に運んだ。
彼はちゃんと食事をしているのだろうか。睡眠をとれているだろうか。無茶をしていないだろうか。そこまで考え、馬鹿らしいと思い直す。最近発売された週刊誌にだって、名探偵江戸川コナンの話題は尽きないというのに。
今でも時々博士と連絡をとっていた。
全国各地で記録更新を叩きだすほどの暑い日々が続き、博士の体調が心配になり、哀は博士に電話をかけた。
『もしもし、阿笠じゃが…』
哀の心配をよそに、博士はいつもの調子で電話に出た。
「私。哀だけど…」
『おお、哀君。悪いが、ちょっと今立てこんでて…』
やけに潜めた声に、来客中かと哀は思うが、時計を見ると午後九時を回っている。来客にしては遅い時間だ。もしや博士にもついに春が訪れたのかと、哀が簡単な挨拶を残して電話を切ろうとした時。
『こ、こら、歩美君…!』
焦ったような博士の声と、耳触りの悪いノイズが聞こえ、
『もしもし! 哀ちゃん? 哀ちゃんなの!?』
それは東京に置いてきた思い出の中のひとつだった。受話器からはとても懐かしい、でも記憶よりもずっと大人になった声が響いた。