2-7

 コナンが毛利探偵事務所を出たのは、小学四年生の春の終わりの事だった。
 突然大きな鞄と共に阿笠邸にやってきたコナンを、哀は問いだたした。

「どういう事?」
「見ての通り、今日からここで暮らす。本当は隣の俺の家で一人暮らしをしたいところだけど、さすがにまだ小学生だしな…」
「そういう事じゃなくて」

 この荷物を運ぶ為に車を出した博士は、今外で車を入れ替えている。

「いったいどうしたの…。蘭さんには何て…」
「――灰原が好きだから」

 リビングに入り、足元に荷物を置き、コナンが声を低くした言った。

「おまえが好きだから、ここで暮らしたいんだ」

 青みがかった真剣な瞳を向けられ、哀は硬直した。このまなざしを知っている。彼は自分を好きだというのだろうか。ありえない。様々な感情が胸の中を交錯する。
 そして長年コナンの胸の中で育っていた恋の終焉を知った。一歩、また一歩と哀はコナンに近付き、コナンのすぐ目の前に立った。眼鏡のレンズ越しにコナンが目を見開いて哀を見つめる。哀はコナンの頬に触れ、ゆっくりと抱きしめた。

「……灰原?」

 勝手にコナンの気持ちを決め付けて、コナンの想いを疑ったのは、自分が傷つきたくなかったからだ。
 ずっとコナンは他人のものだと思っていた。それでもコナンの言葉通り、この身体は、心は、自分の思い通りになるというのだろうか。現実味のない出来事に指先が震えた。
 コナンの手が戸惑うように哀の肩に触れた。しんとした部屋の中、窓の外から聞こえるエンジン音が止んだ時、コナンは指先に力を入れて哀を自分から離した。

「灰原、おまえは俺の事……」

 頬を赤くしたコナンが言ったのと同時に、ドアが開いて博士が部屋に入って来た事で、二人の会話は終了した。
 そのあと、コナンから付き合ってくれと改めて言われ、二人で出かけたり、キスをしたり、中学生にもなった頃には身体を重ねる事もあった。それでも哀は、この時の頬を赤らめたコナンの顔を何度も思い出した。
 そして中学一年生の春の終わり。哀は工藤邸に住む事になった。



 毛利蘭と再会をしたのは、哀が工藤邸に住み始めてからすぐの、夏が訪れる目の前の時期だった。

「哀ちゃん…?」

 夕食の買いだしの為にスーパーでカゴに野菜を入れていた時、横から声がかかった。長い黒髪はそのままに、黒くかっちりとしたスーツ姿はあまり彼女に似合っているとは思えなかった。彼女には柔らかいパステルカラーが似合うのに。

「哀ちゃん、久しぶりだね。元気?」
「ええ……」
「会えて嬉しいわ…。ずっと、気になっていたんだよ」

 彼女が気にしていたのが自分ではなく長い間居候していたコナンである事くらい、哀にはすぐ分かった。
 それから蘭にお茶に誘われ、近くの喫茶店に二人で入った。蘭と二人きりになる事は気まずく、避けたかったはずなのに、彼女の誘いには断れなかったのだ。

「哀ちゃんも博士の家を出て、新一の…、工藤さんのお家でコナン君と暮らしてるって聞いたわ」

 運ばれてきたコーヒーを啜りながら、静かに蘭が言った。
 嘘をつくのはやめよう、とコナンと話した。自分達の姿が偽りだからこそ、自分達が一緒にいる理由もできるだけ大人たちに話す事にしていた。蘭の耳には小五郎経由で入ったのだろうか。コナンが毛利家を出てから、蘭に会ったという話は聞かないし、蘭の様子を見ても嘘ではないのだろう。

「コナン君は元気?」
「会ってないの?」

 分かっていながら訊き返す自分の意地の悪さを、哀は無理やりコーヒーと一緒に飲み込む。哀の言葉に蘭は困ったように微笑んだ。左手薬指にはキラリと指輪が光っている。

「蘭さん、結婚するの?」
「え? ――ああ、そうなの。大学時代から付き合っている人とね」

 話題が変わった事に少々驚きながら、蘭は大切そうに右手でその指輪に触れる。エンゲージリングと呼ばれるそれは、とても輝いて見えた。

「おめでとう」

 哀が言うと、蘭は先ほどと同じように微笑んだ。彼女と一緒にいる空間は息苦しくて、でもどこか安心した。同級生達よりも低めのトーンで語られる言葉は、すんなりと哀の耳に馴染んだ。
 哀がぽつりぽつりと近況を話し出すと、蘭はひとつひとつに相槌を打って、嬉しそうに、時には懐かしそうに笑った。そして蘭の近況を聞いている内に、時間は流れていたのだと実感する。いつまでも捕われなくてもいいのだと思った。きっと彼女から得た安堵感はそういうものだった。どこまでも利己的で、でも蘭はそれすら受け入れてくれた。
 また会おう、という蘭に、哀はうなずいた。コナンには言えない、女同士の秘密のはじまりだった。