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 駅構内に吹き抜ける風は既に秋の香りを運んでいた。半袖のブラウスの上に薄手のニットカーディガンを羽織った哀は、ぼんやりと柱に寄りかかり、目の前を通りゆく人々を観察する。日本人は神経質で生き急いでいるみたいだ、と通っていた大学の同級生に言われた事を思い出した。哀にとってそれは言い得て妙だ。今も昔も変わらない。
 腕時計に視線を落とし、そのまま改札口に視線を見た。

「哀ちゃん!」

 自動改札に切符を入れてこっち側へと来た彼女が、記憶よりも長くなった黒髪を風に揺らしながら駆け寄って来た。

「哀ちゃん…。久しぶりだね」
「そうね」

 だけど純粋そのものの笑顔は昔のままだ。子供の頃からその笑顔にどれだけ救われた事か。幼馴染の歩美も、例外ではなく昔と変わらない。

「よかった、元気そうで…」

 大きな鞄を両手で持った歩美が、安堵するようにため息をついて、ふっと笑った。その表情に、一言では表せないほどの感情がこみ上げた。罪悪感や感謝の気持ち、そしてやっぱり彼女の澄んだ瞳はまっすぐに前を向いていて、とても憧れた。

「歩美もね」

 どうにかそれだけを答えると、歩美は顔をくしゃりとさせて笑った。



 ホテルに泊まる歩美のチェックインに付き合い、歩美の荷物を置いてから観光地でもあるこの街を散策する。
 先日博士に電話をした時、偶然歩美が阿笠邸にいた。博士の様子ですぐに察した歩美は、さすが探偵団の一員だった。それから哀の居場所を聞き出し、そうして今日会う約束をしたのだ。大学生の夏休みは長い。数年前に開通したばかりの新幹線に東京から乗ってきた歩美は、歩きながら最近の出来事を面白そうに語った。

「歩美は今何年生だっけ?」
「三年生。あと少ししたらシューカツの時期だよ」
「シューカツ?」
「就職活動」
「ああ、就活…」

 歩美は大学で英文科を学んでいるのだという。なぜその学問に興味をもったのか訊ねてみたかったが、やめておいた。一、二年生で多くの単位を履修した為、三年生である今はバイトに明け暮れているのだと歩美は言った。さらりと揺れる黒髪の隙間に見えるピアスが控えめに光る。彼女はもう大人だ。

「でもびっくりしたな。哀ちゃんがイギリスで、飛び級して大学まで卒業してすでに日本で就職しているなんて」

 黒髪を耳にかけながら、歩美は石畳の足元に視線を落とす。
 あの日、歩美と電話をした夜。まさか歩美が一人で阿笠邸にいたわけではない事くらいすぐに分かる。哀と歩美の共通の話題であるはずの少年探偵団の話はまだ彼女の口から出てこないが、哀は確信していた。歩美の傍には少年探偵団の誰かがいたはずだった。もしかしたらコナンもいたかもしれない。
 彼にも自分の居場所を知られたのではないか。焦りが生じるのに、あの電話では怖くて聞き出せなかった。

「あの時……、どうして博士の家に?」

 風は涼しくても、西陽はまだ夏の光を残して鋭く、哀は目を細めた。

「プリンタをね、借りに行ってたの。家のプリンタ壊れちゃって、ガッコに行くのも面倒臭かったし」

 だから哀ちゃんから博士に電話がかかってきて本当にびっくりしたんだよ、と歩美は何でもない事のように笑う。ひとつの話題を避けて、表面上で笑いながら話すしかないこの空気を、哀は知っている。いつまでも誤魔化せるわけではないと分かっているのに、迷子になって出口に辿りつけない。

「哀ちゃんは、東京には戻って来ないの?」

 出口への近道を懸け橋として作って来たのは、歩美の方だった。哀は曖昧に笑い、少しずつ陰りを見せて行く九月の空を見上げた。待っている人なんていない。そう言い聞かせた。だけど思い出はある。同僚の言う事は正しい。故郷を捨てられるほど、哀の持つ過去はひどいものではなかった。だからこそ、心が揺れて苦しかった。幸せな時間が心を潰す。振り返るという事は傷口を広げる行為だ。
 歩美との時間は胸を撫で下ろしたくなるほどほっとするのにどこか居心地が悪く感じてしまうのは、哀に負い目があるからだろうか。博士以外の誰にも何も言わずに日本を飛び出した事は、褒められたものではない。誰よりも自分を愛してくれた人や、自分を大切にしてくれた友人を裏切ったという罪を、哀は受け止めているつもりだった。
 歩美はその日ホテルで一泊し、次の日には笑顔で帰って行った。就活が終わったらまた来るね、と言い残して。


 しかしそれは叶わなかった。哀の東京への異動が決まったのは、それから一年後の事だ。