2-13

 毛利家でコナンと再会してからもうひと月以上経っていた。そもそも再会したと認識しているのは哀だけで、あの時のコナンは哀を透明人間のように扱っていたはずだった。
 なのに、どうして。震える唇ではその一言が言えない。

「遅かったんだな」

 手元の文庫本を鞄にしまいながら、コナンはテーブルに置かれていた残りのコーヒーを飲みきった。とっくに冷めきっているだろうコーヒーを。
 彼がなぜ哀の勤務先を知っているのか、それは愚問だった。

「歩美と連絡とってるのか?」

 カフェのロゴが印刷された紙コップを手に持ち、テーブルの前に立ったままのコナンが哀を見る。秋の夜風が吹き抜け、一気に指先が冷えていくのを感じた。ヒールの足元のバランスを、慌てて整える。

「……最近は、あまり」
「やっぱりそうか」

 殺人犯の凶器を見つけたかのように口元を歪めて笑ったコナンが、哀をまっすぐに見つめた。昔よりも身長差が開いているせいで、見下ろされているみたいだった。ガラス玉のような瞳が、哀をじっと見る。

「元太も光彦もおまえに会いたがってる。今度の土曜日、米花駅近くでみんなで飲むから、都合がつけばおまえも来れば?」

 言いたい事は全て言い終わったとでもいうように、コナンが店の中に入って行き、手に持っていたカップを設置されているごみ箱に捨てているのが見えた。哀はその場に突っ立ったまま、コナンの言葉を口の中で繰り返しつぶやいた。
 明るい店内からコナンが戻って来て、まだいたのかと言うように哀に視線を向ける。

「え、江戸川君も行くの…?」

 震える声で哀がそう訊ねると、コナンは肩をすくめた。

「さぁ。どうだろう」
「私も仕事が入るかもしれないし…、時間や詳しい場所って…」
「そんなの歩美に聞けばいい」

 これ以上話す事もないのか、哀に軽く手を振って、歩いてその場から去って行った。まっすぐ伸びた背中も、向けられた感情の籠らない瞳も、知らない人のものみたいだ。この数年で、知らない人になった。ただそれだけだった。
 小さな少女に戻ったように、言葉にならないやりきれなさが腹の底から沸き上がる。冷えた風が目に沁みて、涙が出そうになるのを唇を噛み締めてどうにかこらえた。すべて哀が選択した事だ。間違ったことなんて、何もない。



『哀ちゃん! どうしたの?』

 その翌日、仕事の合間に歩美に電話をかけると、明るい声が哀を迎え出た。

「あの…、昨日江戸川君から、今度の土曜日みんなで飲むって聞いて…」

 そこまで言って、コナンの声を思い出した。瞳や表情だけではない。声も冷淡で、初めて会った頃の事を思い出した。警戒心丸出しの、哀を敵だと認識していた。彼は人の心を傷つける人間を許さない。誰よりも彼を傷つけた哀の事も、きっと許す事はないのだろう。

『ああ、そうだった…! 連絡しようって思ってたんだけど、コナン君が自分で哀ちゃんに言うって言ってて…。もしかしたら二人で会ったりしてるの?』
「ち、違うわ…。私は彼の連絡先なんて知らないし、たまたま偶然、会って……」

 言いながら、ちぐはぐさを覚える。確かにコナンの連絡先は、昔のスマートフォンと共に工藤邸に捨ててきた。コナンが哀の職場を知っていたのも彼の事だからちょっと調べるくらいですぐに分かったんだろうけれど、でも決して快適な気温とは思えない秋の夜に、わざわざテラス席で哀を待っていた理由は何だろう。
 言葉に詰まった哀を気にする様子もなく、歩美は土曜日の居酒屋の名前と時間を告げた。元太と光彦が哀に会いたがっているのだとコナンと同じセリフを言う。
 歩美とこうして連絡を取り始めて、すでに一年が経っていた。現在大学四年生の彼女から、就職先が見つかったという話はまだ聞かない。テレビでは再び日本を襲う就職難のニュースが繰り広げられる。彼女の明るい声からはそういった様子は垣間見えることもなかったが、どこか無理をしているのかもしれない。でも、哀にはどうする事もできなかった。

「その飲み会…、江戸川君も行くの…?」

 震える声で聞く。彼が来るなら行かない方がいい気がした。でも、こんな自分に会いたいと言ってくれる元太と光彦の気持ちを無下にもできなかった。

『来ると思うよ? もちろんコナン君忙しいし、ドタキャンするかもしれないけれど。行く気もない飲み会にわざわざ哀ちゃんを誘ったりしないでしょ』

 歩美から語られるコナンと、昨日哀が実際に見たコナンの様子の齟齬が大きく、哀は軽く混乱した。
 簡単に挨拶をしてから、電話を切ってスマートフォンを鞄に入れる。腕時計に目を向ける。そろそろ取引先の病院に行かなければならない。窓から見える空は快晴で明るいが、天気予報によると夕方から雨が降るかもしれないとの事だった。デスクに戻り、資料と折り畳み傘を鞄に入れて、哀は再びヒールの高いパンプスで歩いた。