2-14

 思ったよりも仕事が長引いてしまった。土曜日の午後七時、哀はスーツの上にコートを羽織って電車に飛び乗った。途端に換気できていない空気に悪酔いしそうになる。外との温度差に、冷や汗が背中を伝った。
 土曜日の電車は平日とは雰囲気が変わる。今日から本格的に冬に突入したらしく、周りの人々はみんな厚手のコートを着ていた。季節感に捕われる日本の生活も、戻って来てからニ年近くが経てば慣れて来る。
 指定された居酒屋に入り、再び気温差にくらっとしたが、店員に案内された座敷席で見知った顔を見たらその気分も吹き飛んだ。

「灰原さん!」

 哀の姿に最初に歓声あげたのは光彦だった。真面目そうな雰囲気はそのままで、でも表情が柔らかくなった。シックなセーターがとてもよく似合っている。そういえば中学生の頃くらいから光彦の私服は大人っぽくなっていた事を思い出す。姉のいる影響か、もともとセンスがいいのかもしれない。

「おー、灰原! 久しぶりだな、元気にしてたか?」

 光彦に続いて元太も声をあげる。元太は春から警察学校に通うのだと博士から聞いていた。刈り上げた頭も、何でも受け止めてくれそうな笑顔も、昔と変わらない。

「ごめんね、哀ちゃん。先に始めてたよ」
「いいの。こちらこそ遅くなってごめんなさい、なかなか仕事が終わらなくて」
「灰原聞いたぞ。イギリスで飛び級して、もう大学も卒業して働いているんだろ?」

 哀はコートを脱ぎながら、靴を脱いで座敷に上がり、手前側に座っている光彦の隣に座った。歩美と元太は奥の席に座り、体格のいい元太は壁に寄りかかるようにしてビールを飲んでいた。
 そこにコナンの姿はない。ほっとするような、少しだけ胸の奥がつんとするような気持ちになりながら、哀は光彦から渡されたメニューを手に取った。

「灰原さん、何飲みますか?」

 相変わらずな光彦の気配りを懐かしく思いながら、哀はメニューに目を向けた。店員に注文し、やがてドリンクが運ばれてきて四人でグラスをぶつけ合う。
 子供だった彼らとこうしてお酒を飲む日が来るなんて、不思議だった。
 ――なんだか不思議だわ。
 脳内でいつか聞いた言葉が響いた。蘭の言葉だった。当然のように訪れる未来を知っても実感ができない。
 三人は饒舌にさまざまな事を語った。哀の知る中学時代はもちろん、高校生の頃の話もはずんだ。高校生にもなれば少年探偵団としての活動はないに等しかったというが、偶然元太が級友に依頼された猫探しで、殺人事件を発見したという、どこかで聞いたような話も混ざっていて、哀は苦笑した。そして三人から質問されるがまま、哀は仕事の事やイギリスでの暮らしを答えた。哀の母親がイギリス人である事を話すと、三人は納得したように顔を見合わせていた。そういえば、自分自身の話を彼らにしていなかったのだと気付く。どこからどう見ても異質な自分を受け入れてくれた、大切な仲間だったのに。
 学生客の多い安い居酒屋の店内は、ほどよく賑わっていた。いらっしゃいませーと甲高い声が遠くで響く。哀は注文したカクテルを口に含む。少々薄く作られた味でも、彼らとの会話の中では気にもならなかった。むしろ普通の二十二歳のように、大学生と他愛のない話をしている事が夢みたいだった。憧れていたというわけではない。でも自分には無関係な世界だと思っていた。こんなに居心地のいい場所に浸っていてはいけないのだと思っていた。
 三人は急に姿を消した哀を咎める事もなく、まるで昨日まで会っていた友達のように、会話を繰り広げた。目の奥がつんとするのを、慌ててグラスを口に付けることで誤魔化す。

「――悪い、遅くなった」

 背後から聞き覚えのある声が響き、哀はグラスをそっとテーブルに置く。

「コナン、遅いぞ!」
「お仕事大丈夫だった?」

 口々に言われているコナンが、笑いながら靴を脱ぎ、事もあろうか哀の右隣に座った。奥にも席は空いているが、歩美の隣には体格の大きい元太が座っているせいで一人分の席の余裕があるとは言い難く、哀の隣しか座れなかったのだろう。それでも右側だけ体温が冷えて行くような感覚に、哀はうつむく。

「コナン君、もしかしてどこかで飲んでました?」

 光彦が鋭く指摘すると、案内した店員に生ビールを頼んだコナンはジャケットとマフラーを脱ぎ、片手でネクタイを緩める。

「ああ、警察関係者と仕事して、そのあと軽くな」
「大変だな、おまえ…。そんな事にも付き合ってるのか」
「コナン君、事務所開いてからもう一年以上経ってるのに、そういう営業っぽい飲み会とかってやっぱり大事なの?」

 身を乗り出してコナンを心配する元太と歩美に、コナンは肩を揺らしながら笑った。

「そんなんじゃねーよ。心配すんな」

 やっぱり今日のコナンも哀を見ない。隣の席だから敢えて目を合わさなくても済むけれど、光彦とコナンの間に挟まれ、真ん中に座っているはずなのに、コナンが来てから会話が全て頭の上で繰り広げられている気分だった。コナンが来ると分かっていたら来なかったのに、と思う。でもそれは嘘だ。歩美から聞いていた。来るつもりもない飲み会をコナンがわざわざ自分で誘うわけがないと。
 コナンのジョッキが運ばれ、再び乾杯をする。せめて歩美達には心配かけないように、哀は繕った笑顔でその場を過ごした。会話の内容はほとんど覚えていない。