何の意味もなくリビングで流れていたテレビを消した瞬間、静寂さがコナンを襲った。
喧騒を苦手としているはずなのに、耳鳴りがしそうなほどの空気にコナンはため息をつき、読んでいた本を持ったままリビングを出る。普段であれば感じるはずの哀の気配は、今日はどこにもない。キッチンにもシャワールームにも、もちろんコナンの隣にも。
廊下の開いた窓からは夏特有の虫の音色が耳に障った。むんと蒸し暑い空気に不快度は増し、夏の音が更にコナンを一人にする。
哀は学校行事の一環である林間学校で不在だった。
シャワーを浴びたばかりだというのに、すでに背中には汗が流れ、その不快感から逃れるようにコナンは壁に設置されたリモコンに手を伸ばし、寝室のエアコンの電源を入れた。
哀が選んださらりとした手触りのベッドシーツの上に転がり、読みかけていた本を再び開くが、文字が頭に入って来ない。案外人間は静寂に慣れていないのかもしれない。遥か昔の原始時代だって、風や虫の音の中で生活をしていたはずだ。
寝室に広がるのはクーラーの音だけ。いつもと同じ温度設定で、今日も変わらず熱帯夜だというのに肌寒く感じてしまうのは、隣に温もりがないからだ。
哀とは通う高校が違うせいで、もちろん参加する行事もコナンと一緒になるはずもない。
今からでも遅くない、同じ高校に通おうぜ。とコナンが言いだしたのは五月の大型連休が終わった後だ。そんなコナンに、哀は困ったように笑った。
「そんなわけにいかないわ」
哀の言葉に柄にもなくショックを受けてしまったのは秘密だ。
ゴールデンウィークには高校も別々になって会う頻度がぐんと減った少年探偵団の仲間で集まり、例年と同様に阿笠邸でコナンの誕生日パーティーが開かれた。学校に行く必要もない連休は、ずっと哀と一緒にいた。哀の隣だけ酸素が集まっているような、バリアに守られたような空間でコナンはようやく正常に呼吸ができるような感覚を知った。
もちろん一緒にいるからと言って四六時中くっついているわけでもないし、お互いが別行動をしていることもある。それでも同じ場所にいられるという安心感は、他に変えられない。連休が終わった後、これまで感じた事のない空虚感を覚え、コナンにとって哀が隣にいることが最重要な事に思えた。
そんなわけにはいかない、という哀の言葉に、コナンは唇を噛む。
哀が女子高でなければ、強行突破で哀の許可もなしにコナンは転校という道を選んだだろう。それができないのが悔しい。そしてコナンの通う帝丹高校は共学だ。哀が転校してくれれば全て丸くおさまる。哀の学力があれば編入試験だって容易いものだ。
それでも哀は頑なに首を縦に振る事はなかった。
「なんでだよ」
工藤邸のリビングのソファーで隣同士、肩も触れ合うほど近くに座っているというのに、哀の冷めた態度に距離感を覚えた。コナンが哀の肩を抱くように近付けば、それをかわした哀が正面からコナンを見つめた。
「私達は世界で二人ぼっちだからよ」
二人ぼっち。哀が放ったその言葉の意味は分かるが、その真意は読み取れない。
そのまま哀はコナンの腕からそっと逃れ、コーヒーを淹れる為にキッチンへ入ってしまい、その話題はなかったことになってしまった。まるで片思いの気分だった。
思えば哀と一緒に暮らしてから、一人きりの夜を過ごすのは初めてかもしれない。
コナンが何をしていても、哀は文句も言うことなくいつも傍にいてくれた。コナンが読書に熱中してしまっても、寝室に入れば哀が先に寝息を立てていて、その温度の通ったベッドに入り込むのがとても好きだった。その温もりに安心して、コナンも眠りに就くことができた。
クーラーの温度調節をするのも面倒で、コナンは一人きりのベッドに潜り込む。いつもであれば熱中できるはずの小説を読むことを諦め、もう眠ってしまおうと目を閉じる。しかし仰向けになっても横に向いても、心地のよい体勢にならず、寝返りを繰り返しているうちに無意識に枕元に置いてある携帯電話に手を伸ばしていた。
時間は午前零時。コナンにとってはまだ寝るには早い。だけど林間学校中の哀はもうとっくに就寝時間を過ぎているだろう。頭では分かっているのに、まるで母親にすがる子供のようにコナンは哀に電話をかけていた。
コール音が続いている。
当然だ。コナンは子供じみた自分に苦笑しながら、電話を切ろうとした。その時。
『もしもし…?』
――聞こえた。哀の声だ。
「あ…、俺…」
電話をかけたのはこちらだというのに、声がかすれてしまった。何を話せばよいのか分からず戸惑っていると、受話器の向こうで笑い声が小さく響く。
『分かってるわよ』
「あ、そ、そうだよな…」
コナンはベッドの中から這い上がるように身体を起こし、カーテンを少しだけ開けて窓の外を見た。同じ空の下で、哀も自分と同じように受話器を握っている。それだけで胸の奥が痺れた。
「おまえ、まだ寝てないの?」
『寝ようと思ったところに誰かさんが電話をかけてくるから』
いつもの哀の皮肉さえ恋しい。受話器越しに聞こえる声はいつもよりも甘く聞こえ、そんな気持ちを悟られないように、コナンは声のトーンを落とした。
「今日はどうだったんだ?」
そういえば普段も昼間は別々に過ごしているというのに、あまりお互いの日常を語り合うことはなかったことに気付く。
『バスに乗ってキャンプ場に着て、レクレーションをした後にご飯を作ったの。窯で炊くご飯って甘くて美味しいのね。あなた知ってた?』
いつもよりも饒舌な哀に、なんとも言えない気持ちになる。自分の関与できない領域への嫉妬心もある。それでも嬉しくも感じるのだ。生まれた頃から組織に縛られた彼女が、外の世界を見ている事に。
「今度うちでも土鍋で炊いたらいいよ。きっと美味いぜ?」
『そうね』
「ところでおまえ、今どこにいるんだ? 先生にバレないか?」
『テントを出たところよ。同じ班の子も一人一緒に抜け出したの。彼女もカレシに電話をしているわ』
「へぇ…」
友達いるんだ、などと失礼な事を思いながら、なぜ彼女がコナンとは別の高校を選んだのかを今更分かった気がした。世界に二人ぼっちだからこそ、一人の足で歩かなければならない。一人の時間がよりコナンと哀を二人きりにさせる。
そして再び一緒に過ごす時間に、離れていた間の出来事をゆっくり語らえばいいのだ。
「明日も早いんじゃねーの?」
『…分かってるならこんな真夜中に電話しないで』
その言葉とは裏腹に、哀だってきっと困っていない。抑揚のない声の中にも、その違いを見つけ出せるくらいには哀の事を理解しているつもりだ。
コナンは軽く笑い、簡単に挨拶を交わして電話を切った。
もう一度窓の外を見上げる。きっと彼女はもっと星の見える空を見上げていたのだろう。
相変わらず潜ったベッドは冷たかったけれど、だからこそ哀の温もりが大切なのだと思い知らされる。
哀が帰ってきたら、まずはおかえりと言って抱きしめよう。そう決意をしながら、コナンは今度こそ眠りに就こうと目を閉じた。
(2015.6.19)