アニバーサリー


 今朝もコナンの姿は見当たらなかった。
 季節は春へと向かっているにも関わらず、空気は変わらず冷たく、哀はベッドの中で何度か寝返りを打つ。窓から覗く快晴とは言えないどんよりとした曇り空はさらに空気を重くさせる。
 枕元にある携帯電話を手にとる。そこには何の連絡もない。コナンの姿を見なくなってから一週間が経っていた。



 一緒に暮らそう、と言い出したのはコナンだった。
 多くの重荷を抱えたまま、世界で二人きりになったような錯覚になって生きていた。世界が優しい事や彼の気持ちが自分に向いている事に気付く事ができたのは、全てのしがらみを解いたコナンが哀に歩み寄ってくれた日で、哀はそのとき奇跡を知った。
 その春の高校入学を機に一緒に暮らし始めた。コナンが隣にいる日々は温もりが通い、これまでにないほどの幸せな日々。だけど慣れとは恐ろしいもので、その日々に適応している自分自身に哀は呆れさえしている。
 現に一緒に住んでいても顔の合わせない最近、哀の中で小さな不満が溜まっているのだ。



「哀ちゃんとコナン君、付き合い始めてもう一年経つんじゃない?」

 春休みの昼下がり、久しぶりに会った歩美が雑貨屋の商品を手にとりながらつぶやいた。クラスメイトの誕生日プレゼントを探すから付き合って、と今日呼び出されたのだ。

「コナン君、何かサプライズのような事はしてくれた?」

 かつて歩美もコナンに恋心を抱いていた。コナン君に振られたのだと歩美に泣きながら告げられたのは四年前、小学六年生の頃だった。お互いの領域を守りながら、タブーを探しながら、ようやく哀は歩美と向き合う事ができたもの、一年前。

「あの江戸川君がそんな気を利かせられると思う?」
「それもそうか」

 哀の返答に、歩美はおかしそうに笑った。
 特にサプライズを期待していたわけでもなく、哀自身もコナンと付き合い始めたのが果たして何月何日だったのか、記憶から薄れている(確かコナンが哀に気持ちを打ち明けたのは大晦日から正月にかけての夜だったように記憶しているが、哀もコナンもそのあたりを重要視していないので今年も何ら変わりなく阿笠邸で年越しを迎えたのだ)

「コナン君は元気?」

 ピンク色の布地にラメがかったポーチを店員に包装してもらいながら、歩美が問う。

「どうかしら。春休みに入ってから会ってないのよ」
「会ってないって、一緒に住んでいるんだよね? コナン君帰ってないの?」
「少なくとも私が寝る時間までには帰ってきていないわ。リビングのソファーで寝ている形跡は残っているけれど、私が起きる時間には出て行っているから」

 今朝もそうだった。
 リビングには使ったであろう枕と毛布がソファーの上に畳まれていた。眠りの浅い哀を気遣っているのかもしれない。あの嘘のつけない男が今更後ろめたい事もなさそうだし、実際顔見知りの刑事に呼ばれて忙しそうなのは分かっている。

「哀ちゃん」

 雑貨屋を出ると、春の優しい日差しが歩美の白い頬を照らした。

「思っている事はちゃんと言わないとだめだよ。コナン君も考えなしじゃないんだから」

 友達に渡すというプレゼントを大切そうに抱えながら、歩美が大人っぽく笑った。さすが長い付き合いだけある。歩美にはかなわないと哀は思う。



 午後5時。日の入りが遅くなり始めているこの時期のこの時間はまだ明るい。それでも凍える手で工藤邸のドアを開けると、いつもと違う香りがした。

「…江戸川君?」

 中に進み、キッチンのドアを開けると、コナンが顔を覗かせた。

「おかえり。歩美と買い物に行ってたのか?」

 哀の持つショップ袋を見て、コナンが無邪気に笑う。手元には鍋とお玉と味噌。これは味噌汁の匂いだ。コナンが料理をすることなど、これまでほとんどなかったので、この希有とも言える光景に哀は久しぶりに会うコナンに皮肉を込めた挨拶をすることも忘れてしまった。

「そう…」
「そっか。俺、どうしても腹が減ってさ。とりあえず米焚いて、味噌汁作ってみた。美味いか分からねーけど」

 これは何のサプライズだろうか。哀は荷物を置こうとリビングに足を運ぶ。そしてその光景に更に驚愕をした。
 テーブルの上がゴージャスに真っ赤に飾られている。

「江戸川君、あれは何!?」

 床に落とした荷物もそのまま、哀は再びキッチンに駆ける。

「何って…。薔薇だけど…」
「見れば分かるわよ。どうしてそんなものが…、あんなにたくさん…」

 混乱したまま哀がつぶやくと、コナンは罰が悪そうに頭を掻き、哀を見た。

「一緒に暮らし始めて、今日で一年だから」

 そう言ったコナンが鍋の火を止め、キッチンを出てリビングに向かった。哀も慌ててその背を追った。しばらく見ないうちにまた背が伸びたように思う。
 コナンはテーブルに置いてあった薔薇の花束を手に取り、哀に差し出した。

「一年間、サンキューな」

 独特の甘い香りが鼻腔をくすぐり、哀は震える手でそれを受け取った。

「こんなにたくさん、高かったでしょう…?」
「おめーなぁ、そういう現実的なことばっか言うのもどうかと思うぞ。おめーらしいけどな」

 コナンは屈託ない笑顔で笑い、花束ごと哀を抱きしめた。
 久しぶりの温もりと薔薇の香りに、哀はめまいを覚えた。恋人で同居人でもある彼に文句ひとつ言ってやろうと思っていた。自分を省みない生活はいつか無理が祟る。どれだけ心配をかけたら済むのと問いだたしてやるつもりだったのに。

「……眠い」

 哀の肩にもたれるようにしてコナンがつぶやく。

「お腹空いていたんじゃないの?」
「哀の顔を見たら安心して眠くなった」

 それもそのはず、コナンは寝る間もなく警察に呼び出されていた。今日もまだ現場に残る都合があったのかもしれない。それでもコナンは猛スピードで仕事を終わらせ、この薔薇を買い、帰って来てくれたのだろう。
 他人同士が一緒に暮らしていれば不満は生まれる。だけど、こういう気障なところがあるからこの鈍感な男を憎めない。

「少し眠ってくるといいわ。夕飯の残りは私が作っておくから」

 コナンの頭を撫でながら哀が言うと、コナンはうなずいて二階へと上がって行った。
 哀は書斎に置いてあった花瓶に水を入れ、薔薇をさした。それをどこに置こうかとリビングを見渡す。
 この家に住んで一年。初めは異空間でしかなかったこの場所も、いつも間にか慣れ親しんで、当たり前のように哀の暮らす場所となっている。その事実に気付き、くすぐったいような不思議な気持ちになった。
 疲れているコナンが目を覚ましたらちゃんとお礼を言って、そして今日は久しぶりに一緒に夕食を摂るのだ。当たり前の日々の中に見つけられる小さな幸せを、今夜はきっと噛み締めながら眠りに就けるだろう。



(2016.8.17)