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「あれ、工藤君!?」

 劇場の裏へと通された新一は、まだ衣装を着たままの出演者である俳優から声をかけられ、歩いていた足を止める。

「あ、旗本さん、お疲れ様です。アクトナビの佐藤さんのご紹介で、お邪魔しています」
「へぇ、佐藤さんから! あの人この舞台をすごく贔屓にしてくれていてさ。それにしても工藤君がこんな舞台に足を運んでくれるなんて思わなかったなぁ」

 渋いおじキャラとしてキャラが定着した旗本祥二が軽快に笑う。もう四十代に差しかかる旗本は、子役時代から合わせて芸歴30年にもなる大物俳優だ。新一の背筋も自然と伸びた。

「いえ……、僕もまだまだ学ばなければならない身なので」
「ははは、イケメン俳優が何言ってるんだよ」

 笑い声を立てる旗本が、ふっと思い出したように新一を見た。

「ああ、そうか。工藤君は知り合いなんだよな」

 ステージ裏の廊下ではスタッフが多く走り回っている。今日はこの舞台の千秋楽だ。

「宮野志保ちゃん。前にドラマで共演しただろ?」

 旗本の言う通り、多忙である新一が舞台に足を運ぶ事は珍しかった。いくらネットで志保の情報を追う事を避けていたとはいえ、舞台については知っていた。そこに佐藤から紹介され、最後の公演を関係者席で閲覧したのだった。
 七月末から公開されている舞台『甘い毒』は、ヨーロッパ中世の貴族達の欲望渦巻く人間模様を描いたストーリーだ。ステージの上で時に高飛車に笑い、そして世界の終焉を知ったように泣き喚く志保の姿は、新一の見た事のないものだった。彼女の泣き声に、会場がしん、と空気が張り詰めたのを、関係者席に座る新一は肌に感じていた。

「工藤君。これから打ち上げがあるんだけど、よかったらおいでよ」
「いえ……。部外者の僕がお邪魔するわけには……」
「俺も工藤君と共演した仲だしさ。それに、宮野ちゃんも喜ぶんじゃないかなぁ。彼女のデビュードラマの共演者でしょ」

 それはどうだろう、と新一は思いながら、スマートフォンでスケジュールを確認した。



 その後舞台『甘い毒』の演出者にも会い、ぜひと誘われた事で新一も打ち上げに参加する事になった。こういう夜に限って仕事は入っていない。『時を止めて』の公開まであとわずかだが、番宣で出演しているバラエティなどの撮影は全て終わっていた。

「やっぱり工藤新一じゃん!」

 『甘い毒』に出演していた女優達が、新一の姿を見るなり声をあげた。

「やば、ホンモノ?」
「顔小さっ!」

 演技中とは別人のような口ぶりで笑顔を見せる彼女達は、新一と同じようにきっと演技を好きだ。彼女達の中でもひときわ目立つ女優が、勝気な瞳で新一を見た。

「初めまして、工藤君」

 真っすぐな黒髪を黄色いリボンでまとめた彼女を、新一は知っていた。

「遠山和葉さん、ですね。初めまして」

 緊張した声で新一が挨拶を返すと、和葉は途端に表情を崩して笑った。

「何かしこまってんのー! 平次からいつも聞いとるよ。いつかアタシも会いたいって思っててん」

 彼女は、先ほどまで憎しみしか知らない女の魂を被っていたはずだった。そのギャップに新一は戸惑いながら、微笑み返す。服部平次と同じ大阪出身の遠山和葉は、主に舞台で活躍する女優だった。

「こちらこそ、服部から時々話を伺ってました。会えて嬉しいです」
「なぁ、それって売り出しキャラやんな? アタシら同い年やし、もっと普通でええで?」

 表向きの新一の顔に突っ込んだ和葉が一通り笑った後、新一の肩をぽんと叩いた。

「旗本さんから聞いてるで。志保ちゃんなら、あっちでスタッフさん達と喋っているみたいやけど」

 役作りなのか綺麗にネイルされた指を向けた和葉に、新一はありがとう、と返した。
 小さなバーを貸し切りにして繰り広げられる打ち上げは、先日の『ムーンライト』よりもずっとアットホームな雰囲気で、だからこそ部外者の新一の存在は異質だった。

「あれ、工藤新一じゃん」

 和葉に言われた場所に足を運んだ新一に、スタッフ達が好奇の視線を向ける。それに気付いた志保も、ゆっくりと振り返った。

「お疲れ様、工藤君」
「急にお邪魔してごめん。アクトナビの佐藤さんから紹介されて来たんだ」

 談笑していたスタッフ達は、新一と志保の雰囲気に気を利かせたのか、静かに席を外していった。新一は彼らに会釈をし、ソファーに座る志保に再び顔を向ける。

「舞台、よかったよ。宮野の演技に鳥肌が立った」
「……ありがとう」

 志保は手に持っていたグラスをテーブルに置き、先ほどまでスタッフが座っていたソファーに腰をかけるように新一に促した。新一は周囲を気にしながら、志保の目の前のソファーに座る。同じ視線の高さで志保の瞳を見つめるのは、久しぶりな気がした。だけど実際は、志保の部屋で過ごした日々からまだ一つの季節を跨ぎきっていない。

「おまえは、やっぱり劇団出身だなって思い知らされたよ。根本的に俺とは違う」
「工藤君は、何を迷っているの?」

 バーで流れる洋楽が心地いい。クーラーが効きすぎているのか、薄手のカーディガンの袖を手首まで引っ張った志保が静かに問う。
 日頃生きていく上で、迷いはいつも胸の中に存在する。世間からの視線、業界人からの評価、様々な雑音が自分を押し潰そうとするけれど、結局のところ自分が一番立ち向かわなければならないものは、自分自身だった。

「俺、最近のオファーは色恋沙汰の話ばかりなんだ」
「恋愛至上主義のこの国では、結局そういうストーリーが一番ウケるのよ」

 子供の頃の心の支えでもあった秘密基地を思う。俺は負けない、と涙をこらえたあの頃は、諦めを知らなかった。大人になるにつれて、物事を悟る手段だけ覚えた結果、自分よりもずっとデビューの遅い志保とはずいぶん遠い場所にいる。

「宮野」

 地下に位置するこの店にいると、外の世界と完全に遮断されている気分になる。何かに溺れたような感覚を受けながら、新一は言う。

「俺、本当はまた探偵をやりたい」

 彼女のマンションの前で話した、いつかの早朝での会話を思い出す。工藤新一の名前が世に渡った作品で、子供ながらに新一は探偵役をこなした。今思えば、親の七光りだなんだと囁かれようと、あの頃が一番自分らしく生きていた気がする。
 いつからその光が失われたのか、新一には分からない。

「俺は本当の恋を知らないんだって、言われたんだ」

 だからと言って、自分のやりたいものばかりがオファーされるわけではない。どんな役でもこなすことが、新一の仕事だ。青臭いと思っていた塾講師との恋愛に感情が沸き上がったように、自分の知らない世界はまだ多く存在する事に、ようやく気付いた。

「こうやってイケメン俳優ってもてはやされているうちは、きちんとやらないといけないよな」

 ひとつのメロディラインが終焉を遂げ、次はドラムの響くロックミュージックが流れ始める。新一は自嘲してソファーから立ち上がった。いくら志保が主演じゃないとはいえ、部外者の自分がいつまでも彼女を独占していいはずがなかった。ここは、今日千秋楽を迎えた舞台の打ち上げなのだ。

「工藤君」

 黙って話を聞いていた志保が、ソファーに座ったまま新一を呼ぶ。その透き通った声が好きだった。まっすぐなまなざしが好きだった。

「私と恋愛をする?」

 振り返った新一に静かに言い放たれた言葉に、新一は意味を考え、ゆっくりと首を横に振る。その様子をじっと見ていた志保も、肩をすくめるようにしてうなずいた。
 演出者や主演の女優に挨拶をしてから、新一はバーを出た。時刻は二十三時をまわっていた。
 空調の整った室内とは違い、夏の終わりの冷たい空気が自分を圧迫し、新一は息苦しさを覚える。痛みを示すのは、胸の奥か、目の奥か。どんなに痛みを覚えても、自分でも持て余す感情を恋と呼べるはずがなかった。
 あれ工藤新一じゃない? と道中でささやかれ、新一は手に持っていたキャップ帽を深く被った。明日は朝から雑誌の取材が予定されている。
 足早に自宅へと向かった。空に浮かぶ月の光は、都会のネオンに掻き消されて見えないままだ。