3-1



 仮面の下に存在する、本当の姿を手に入れたかったわけじゃない。



3.Persona



 雨の降る日は頭痛が増す。しとしとと降り続ける水滴はやがて積もり、視界すべてを濡らしていくようだ。

「おはようございます」

 控室で台本を確認していると、ようやく工藤新一が現れた。隣にはマネージャー兼母親の有希子もいて、二人して頭を下げた。

「遅くなって申し訳ございません!」

 確かに売れっ子で多忙の工藤新一ではあるが、大幅の遅刻は珍しい。志保はゆっくりと台本を閉じて、新一を見た。相変わらず、疲れの取れていない顔だった。

「いやいや、結果的には間に合ったのですし…。工藤君、台本の確認をお願いします」

 これから出演する朝の情報番組の控室で、番組関係者が新一に台本を渡す。つい先ほどヘアセットをしたのだろう、かすかにヘアワックスの香りをさせた新一が、志保の隣に座った。

「……はよ」
「おはよう、工藤君。遅刻なんて珍しいわね」
「ああ、昨日は大阪のローカルに出演していたんだけど、夜帰れなくなってさ……」

 この国の労働基準法はどうなっているのだろうか。十七歳の彼に対して心の底から同情をしている志保に気付いていないのか、新一は眠そうに目をこすりながら台本をめくった。
 今日は連続ドラマ『ムーンライト』の放送最終日だ。時間枠もいつもより長く、その宣伝として新一と志保はこうして情報番組に出演をする。これでようやくこのドラマの仕事を終える事ができる。
 志保も新一の行動をなぞるように再び台本を開き、目を通した。隣の気配が気になり、内容は頭に入って来なかったけれど。



 番組の収録は続いていた。同じ局で、朝から昼過ぎまで続く情報番組に少しずつ出演することで、拘束時間が長い。

「志保ちゃん!」

 テレビ局の廊下で、聞き覚えのある声が響き、志保が振り返ると、三月に収録したバラエティ番組で会った男が満面の笑みで志保に近付いて来た。

「おはよう、志保ちゃん! ドラマ見てるよー!」
「黒羽さん、おはようございます」
「嫌だなー、俺の方が年下なんだし、黒羽君とか快斗君とか呼んでくれていーのに」

 白いパーカーを羽織った快斗が、志保の前でくしゃりと笑い、白いパーカーのポケットに両手を突っ込んだ。私服だろうか、以前に楽屋で見た時と同じようにラフな格好なのに、様になっている。
 なぜか志保は新一を思い出した。なんとなく二人の顔立ちが似ているからかもしれない。つい最近までドラマで連日会っていた頃を思えば、今日は久しぶりに会ったように思う。しかし番組収録のたびに顔を合わせているが、軽口を叩ける様子もない。その原因を志保は知っていた。

「ねぇ志保ちゃん。今夜って暇? いいお店に行かない?」

 アイドルのように完璧にウインクした快斗が、ポケットからスマートフォンを取り出した。やっぱり快斗は新一とは別人で、ずっと器用に生きているように見えた。



「それでは、本日ゲストの工藤新一さんと宮野志保さん。最後にドラマ『ムーンライト』の収録を終えての感想をお願いしまーす」

 朝からずっと同じような質問をされている。それでも新一は慣れているのか、志保の隣でカメラに向かって爽やかな笑顔でセリフを読むように流暢に話した。

「今まで演じなかったような色気のある役をさせて頂いて、僕自身もとても刺激になりました。現場も和気あいあいとしていて楽しかったです。今晩が最終話の放送となりますので、ぜひご覧ください」
「工藤さん、ありがとうございます。宮野さんはどうですか?」
「はい。私はテレビドラマの出演自体が初めてで、多くの事を学びながらアキコという女性の役を演じました。監督を始め、多くのスタッフの方や共演者の方の力を借りて撮影を終えました。最後まで楽しんで頂きたいです」

 生放送にはカットの声も入らない。カメラワークが変わり、人気女子アナに切り替わる。今夜に放送されるドラマの日時を詳しく伝え、そこでいったんCMに入るのを待つだけだ。

「工藤新一さん、宮野志保さん、ありがとうございましたー!」

 今何時だろうか。拍手の中で会釈をしながら、志保は快斗との約束を考えていた。



 ポケットに入れていた腕時計は午後三時を示していた。ほどよく空腹感を覚えるのも当然だった。支給されたお弁当には手をつけていない。

「宮野」

 楽屋へ戻る廊下で、新一に呼ばれたので志保は振り返る。

「何?」
「あの、さ……」

 気まずさを隠さずに、新一は顔をこちらに向けたまま視線を合わせようとしない。
 志保は唇の感触を思い出す。工藤新一が住む高級マンションのリビングのソファーの上。そのままベッドの中に潜り込んで、とても健全な意味で一緒に寝た。

「キスの事?」

 志保が臆さずに訊ねると、新一はぎょっとしたように志保を見た。ようやく合う瞳は揺らいでいて、そこには不安や迷いが溜め込まれているようだった。そもそも仕事としてプロ意識を持ってキスシーンやラブシーンを重ねてきたイケメン俳優の姿はどこにいったのか。志保は肩でため息をつく。

「別に、気にしていないわ」

 言いながら志保は腕時計を確認し、次のスケジュールの時間が迫っている事に気付く。

「それより、私、次があるからもう行くわ」
「次って?」

 眉根を寄せて志保を見る新一に、志保はふっと笑った。彼の真意は分からない。きっと、彼が志保の気持ちを理解することもないのだろう。芝居をする環境に生まれて十八年。対抗するわけではないが、志保にだって自尊心はあるし、守りたいものもある。

「あなたには関係ない」

 今度こそ楽屋に向かって、これからメイクを直して衣装から私服へ着替えなければならない。軽く手を振って、新一から去る。ちょっとだけ高揚感を覚えたのは、演技によるものか否か、志保にも分からなかった。