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 ドラマの撮影と打ち上げの疲れが静かに身体に襲いかかり、新一は体重すべてをソファーに預けていた。

「工藤君はよくこういう事するの?」

 クッションを抱えたまま、隣に座っている志保が新一に顔を向けて静かに訊ねる。彼女の抱えているクッションカバーは先日有希子がイギリスで買ったものだった。

「こういう事?」
「共演者の女の子を家に連れ込んだりする事」

 すとんと落とされた言葉に、新一はたじろいだ。

「す、するわけねーだろ」

 今になって新一は慌てた。新一自身、大きなスキャンダルを発した事はない。軽率だったかなと思わなくもないが、パパラッチの気配には敏感でもある。例え写真を撮られたところで志保とは手をつないだり抱き合ったりしたわけでもなく、言い逃れなどいくらでもできる。一瞬にして様々な事を考えていると、志保がくすりと笑った。

「お、おまえこそ、平気で男の家にあがったりして、そういうの慣れてんのか?」

 そして俳優としては新一の方が先輩だが、年齢は志保の方が一歳年上であることを思い出した。クラスメイトにも彼女のような色気を漂わす女子は一人もいない。

「慣れてないって言ってるでしょう」
「恋を知っているのに?」

 新一が言葉を追うようにつぶやくと、志保は静かに頭をあげて、新一をじっと見た。同じソファーの上で二人、既視感を覚える。そういえばたった数時間前、彼女の家のベッドで抱き合った事を思い出す。ついでに、初めてのキスはソファーの上だった。正確には、彼女が演じるアキコの家で、だ。
 スイッチが入ったように、新一はソファーの上で座り直し、まっすぐに志保を見つめた。役に入り込めば、恐れるものは何もなかった。彼女をとても好きだった。好きで、いてもたってもいられなくて、彼女を騙してでも手に入れたかった。
 境界線が曖昧になる。新一は志保の頬に触れる。

「工藤君」

 少し硬い志保の声に、ピクリと指先が痙攣した。

「私はアキコじゃないわよ」

 そんな事分かっている。そう言いたいのに、呼吸がうまくできず、新一は生唾を飲み込んだ。志保の瞳はまっすぐに新一を向いていて、怯む事もない。彼女に恐れるものはあるのだろうか。彼女の内面の奥底を知りたかった。
 自分に向けられているその表情すら、ペルソナなのかもしれない。不安に駆られて、新一は志保の唇にキスをする。意外な事に、志保はいっさい抵抗を見せなかった。
 自分から仕掛けたはずなのに、心臓が震える。息継ぎをしながら触れる唇の感触に、喉の奥が冷えた。
 顔を離すと、志保は先ほどと同じような顔で新一を見つめる。今の出来事などなかったような空気に、新一は戸惑う。 

「俺も、マモルじゃない。他の誰でもない、ただの高校生だ」

 役にはなりきれなかった。工藤新一として、志保にキスをしたかった。ただそれだけだった。
 かすれた声で新一がつぶやくと、志保はようやく表情を崩した。

「知ってるわ」

 彼女のこの瞳を知っている気がした。記憶力はいい方だと自負している。でも宮野志保という名前の彼女に出会った事は、記憶にはない。

「……俺達、前にどこかで会った?」

 新一が訊くと、志保は一瞬新一をまじまじと見つめた後、吹き出すように笑った。ようやく見せた顔だった。

「黒羽快斗みたいな事を言うのね」
「…黒羽? あいつ、そんな事言ってたのか?」
「口説き文句のひとつって言ってたわ。あなたも私を口説いているの?」

 冗談を言うように志保は笑い続け、新一は面食らった。二人きりでいるはずなのに黒羽の名前が出た事が面白くなくて、志保の手をとる。口説くなんて、そんな生易しいものではない。自分でもこの感情を持て余しているというのに。

「宮野。俺、最近あまり眠れないんだ」
「…それも、知っているわ」

 志保の指先は思ったよりも熱が籠っていた。小さな手の平を包むように、新一は両手で握りしめる。

「何もしないからさ、おまえの隣で眠らせてよ」

 その夜、スタジオで感じた覚えのある体温の中で、新一は久しぶりに眠った。志保が隣にいるだけで、自然と眠りの世界へと沈み込んでいくようだった。そういえば志保に聞きたいことがあったのに、結局話せなかった。読みたい本の事や、最近公開された映画の話、まだまだ話し足りないのに。意識が薄れていくなかで、彼女との距離感について考える。
 自分と彼女の関係性には、名前を付ける事ができなかった。



 それが昨夜の話だ。
 今朝、新一は何事もなかったように目を覚ました。撮影が続いていた日はいつも夜明け前に家を出る生活で、窓から入る光で目を覚ましたのは久しぶりで、意識がぼんやりとしていた。
 志保の姿はそこにはなかった。あまりにも現実味のない事に、夢かもしれないと思ったが、彼女に触れたのは間違いなく昨夜の事で、マモルとしてではない。工藤新一としてだった。

「新一、大丈夫?」

 机に突っ伏せて、昨夜の出来事を思い出していると、蘭の声が頭上に響く。

「新一君さー、やっぱり忙しすぎて頭やられてるんじゃない?」

 そっと顔をあげると、心配そうな瞳を寄越す蘭と、呆れたように笑う園子の姿がそこにあった。日常の一コマ。ここにいると自分はただの高校生だと思える。だけど、しっくり来ない。結局このクラスにいる時分だって俳優である工藤新一であって、自分の心の中をさらけ出すことはできない。
 本当の自分と向き合う勇気すら持てないのに、他人に理解されようなんて甚だしい。だけど、彼女はまっすぐに見つめてきた。宮野志保は恐れを見せずに、新一の頬に触れて、微笑んだのだ。
 潜り込んだ布団の中で泣き喚きたくなったなんて、誰にも言えない。