3-2

 事務所での打ち合わせを終え、外に出ると一瞬にして湿気が全身にまとわりついた。後ろ髪が汗によって首に張り付いている感触が不快だ。
 先ほどテレビ局で連絡先を交換したばかりの快斗からの、メールに記されてきた場所の看板を眺める。ブルーパロット。煉瓦作りの建物はどこかレトロで、約束された場所でなければ到底一人で入れそうな雰囲気でなかった。志保はスマートフォンを二度見して、ドアノブに手をかける。ひやりとした金属の感触とともに、カランと音が鳴った。

「いらっしゃいませ」

 落ち着いた声が志保を迎えた。いかにもマスターと呼ばれそうな風貌の初老の男性が、志保を見てにこりと目を細めた。

「あ、あの……」
「宮野志保様ですね。お待ちしておりました」

 え? と問う暇もなく、奥から別の声が響く。

「志保ちゃん!? いらっしゃい!」

 ぱたぱたと入口に近付いたのは、志保をここに招いた黒羽快斗だった。ほっとしながら、志保は軽く出迎えてくれた男性に会釈をする。

「志保ちゃん、彼は寺井って言って、俺の親戚にあたるんだ」

 親戚。思いがけないワードに驚きながら、志保は納得する。

「初めまして、宮野志保です。黒羽さんには仕事でお世話になっています」
「寺井と呼んで下さい。こちらこそ、坊ちゃんがお世話になっております」

 品のいい声に志保は再びお辞儀をし、快斗の後をついて店の奥へと進んだ。煉瓦とコーヒーの匂いが混じっていて、心地のよい雰囲気が醸し出されている。他に客はいないのだろうかと思った時、奥へ足を踏み入れて思い違いなのだと知る。

「快斗、誰か来たの?」

 そこには黒羽快斗と同じくらいの年齢の少女が二人。私服姿の少女と、帝丹高校の制服を着た少女。二人とも見た事のある顔だった。

「もしかしたら、宮野志保さんじゃないですか?」

 特に、帝丹高校の制服を着た少女は、工藤新一と同じように子役を経験し、今は女子中高生に人気のあるモデルだった。

「はい…」
「わぁ、お会いできて嬉しいです! 私、毛利蘭って言います」
「えー、なんで快斗なんかと知り合いなの? 私は中森青子でーす! よろしくねー」

 テーブル席で二人がジュースを飲んでいる隣で、快斗がビリヤード台に寄りかかる。

「青子、おまえ俺の番組見てねーの? 四月に『ムーンライト』の番宣で、工藤と一緒に出てくれたんだよ」
「それは知ってるけど。快斗が共演者とかをここに連れてきたことないじゃん」

 セーラー服の襟元が涼しげだった。青子は年相応な話し方をする。とても普通の少女に思えて、志保は場違いに思う。居心地を悪くしていると、快斗がバーカウンターの椅子を引いて志保を見た。

「志保ちゃん、何飲む? 奢るよ?」
「あの…、黒羽さん、何か私に話があるんじゃないですか?」

 木目の床に突っ立ったまま志保が訊ねると、快斗は可笑しそうに少しだけ片頬を歪めた。

「うん、志保ちゃんと話したかった」

 快斗は先ほど引いた椅子の隣に腰をかけ、寺井にコーヒーを二つ頼んだ。

「俺さ、初めて映画の主演をすることになるんだよ」

 後ろのテーブル席には聞こえないように声を潜めて快斗が言った。初めての主演という響きに意外な気もしたが、元々快斗は俳優ではなかったので不思議ではないのかもしれない。志保も仕方なく、先ほど快斗が引いた椅子に腰をかけ、同じように小さな声で返答する。

「そう、おめでとうございます」
「志保ちゃんさ、俺より年上なんだから、敬語じゃなくてもいーのに。工藤にもそうしているでしょ?」

 黒羽に指摘され、志保が返事に困っていると、再び鐘の音が鳴った。いらっしゃいませ、と先ほどと同じように寺井の声が聞こえ、思わず視線を向けると、

「…宮野?」

 眉を潜めてこちらを見つめる工藤新一と目が合った。

「工藤! ちょうどいいところに来た!」
「工藤君、久しぶりー!」

 どう声をかけようか迷っている志保の横で、快斗と青子が順番に新一に声をかけている。

「中森さん、久しぶりだな。蘭も来ていたんだ」
「うん。新一もお疲れ様」
「ていうか、青子気付いちゃったんだけど、『ムーンライト』のマモルとアキコがここにいるなんて、すごい! 夢みたい! 今日の夜最終話だもんね。青子録画予約もしてきちゃったー」

 そこらじゅうにいる女子高生のような顔をして目を輝かせているが、彼女もタレントとして活躍しているのを志保は知っている。そんな彼女に、ありがとう、と爽やかに返事をする新一も、志保の知らない顔のただの俳優だった。
 きっと彼自身が一番嫌っている工藤新一の顔。

「ていうか、黒羽!」

 そしてその仮面を脱ぎ捨て、新一は快斗に詰めよった。

「ちょうどいいところに来た、じゃねーよ! 俺を呼んだのはおまえだろ?」
「だーって、黙って志保ちゃんだけ呼んだら、工藤怒るかなって」

 しれっと笑う快斗の言葉に、新一は言葉を詰まらせ、志保を見た。テレビ局で作った気まずい空気は、今もなお引きずっている。

「宮野様、コーヒーでございます。今日は坊ちゃんの奢りだそうなので、お気遣いなく」

 そこへコーヒーを運んできた寺井が、場の空気を調和するようにコーヒーをバーカウンターの上へと置いた。ついでに快斗の分も置き、寺井は新一へと向く。

「工藤様は何を召し上がられますか?」
「……コーヒー」
「畏まりました」

 まるで執事の鏡のようにきっちり斜め四十五度に頭を下げた寺井が、アルミ製の丸いお盆を持ったままカウンターへと戻って行く。あたり一面、コーヒーの香りが充満する。

「さてさて、皆様お揃いになったところで…」

 置かれたコーヒーもそのままに、快斗が指先を鳴らす。

「ワタクシ黒羽快斗からミナサマへ御報告があります!」

 その瞬間、手元には赤い薔薇が現れ、テーブル席からは二人分の高い歓声があがった。

「快斗ったら、またやってるー…」
「何度見ても、驚いちゃう!」

 少女たちの声に気をよくしたのか、快斗はにんまりと笑って、薔薇を右手に持ったまま、胸を張った。

「実はワタクシ、あの怪盗キッドの実写版を演じる事になりました!」

 ワン、ツー、スリー。手元に浮かぶ赤い薔薇。怪盗キッド。志保は記憶を辿りながら、上品なコーヒーカップを手に取り、カフェインを摂取する。ほろ苦い液体が胃へとつたった。