②5-3

 バスルームの給湯器は、とっくにバスタブに湯が張られた事を知らせている。にも拘わらず、帽子を脱いだだけの志保はソファーの上でべったりと新一に寄りかかっているので、コーヒーを淹れる事もできない。

「志保、どうした?」

 テレビを付けようにも、テーブルに置いてあるリモコンが遠い。耳鳴りがするほどの沈黙に耐えられず新一が片手で志保の髪の毛に触れると、凍らせていた空気を溶かすように志保がゆっくりと新一から離れた。

「……ごめんなさい」
「何かあったのか?」

 新一が訊ねると、志保は黙ったまま首を横に振る。その表情から何かを読み取ることは難しい。そして意外というべきか、見たままというべきか、距離を詰めたところで彼女は感情の全てを口に出すわけではない事を、新一は改めて理解し始めていた。
 シャワーを浴びるように志保に促し、新一は深くソファーに腰掛ける。

「一緒に入る?」

 いたずらな笑みを浮かべるように志保にからかわれたが、新一は冗談を上手く交わす。思えばブルーパロットにいた時から、志保の様子がおかしいかもしれない。

「今度の楽しみにとっておくよ」

 新一が返事をすると、志保は肩をすくめて、今度こそバスルームへと消えていった。
 言葉がなくても理解し合えるのが恋人だと、いつかの恋愛ドラマでのセリフがあったが、それが現実的ではない事に新一は気付いていた。
 新一はショルダーバックからスマホを取り出す。黒羽から『ジュリア』の感想が簡潔に綴られているメールが一通届いていた。それを一通り読んだ後、新一はアドレス帳を開いた。



 志保の後にシャワーを浴びた新一が寝室を覗いた時には、志保はベッドに入り込んでいた。寝ているかもしれないと思い、足音を立てないようにゆっくりとベッドに近付く。乾かしたばかりの髪の毛がまだ熱を持っているように思った。
 ベッドシーツがもぞりと動く。

「まだ起きていたのかよ」

 十月にもなると夜は冷える。志保の起きている気配を感じ、新一は小さく笑って同じシーツに潜り込む。彼女の体温によって温かい。

「明日は何時にここを出るんだ?」

 横向きにこちらを向いている彼女の頬に触れ、新一は訊ねる。

「朝六時には行かなくちゃ」
「分かった」

 例え彼女の予定がなかったとしても、人通りが多くなる前には彼女はここを脱出しなければならない。このマンションに工藤新一が住んでいる事は知られている事でもあるし、志保が無防備にエントランスにいていいわけがなかった。
 一緒に過ごすようになってからも障害はある。最初から分かっていた事だ。

「明日も早いからさ、さっさと寝ようぜ」

 新一も明日は大学で講義を受けた後での仕事が待っていた。受験をしていた頃はセーブしていた仕事も、ありがたい事に今はスケジュールが詰まっている。それでも学生という事で、有希子にも仕事先にも配慮してもらっているのだ、これ以上はわがままを言えない。
 新一が志保の額にキスを落とし、髪の毛を撫でるようにして目を閉じると、新一の着ているスウェットの襟元が掴まれた。シーツの上で体勢を崩し、新一が目を見開くと、志保に唇を塞がれた。

「……志保?」

 午前0時半。キスの合間に名前を呼ぶと、志保に縋るようにして抱きつかれ、その苦しさすら心地よいと思ってしまう。

「おまえ、寝なくていいのか?」
「いいの……」

 華奢な腕が首元にまわされ、深くなるキスに、新一自身の理性が試されているようだった。二十日ぶりに触れる彼女の体温に、喉元が渇く。飢えを覚え、耐えきれなくなり、新一は志保に乗りかかるようにして口付けを繰り返した。
 今夜はまだ終わりそうにない。