②5-4

「しばらくロンドンに滞在するの」

 夜も更けた午前二時、シーツに包まれた志保が唐突に切り出した。夢うつつの中で、新一はゆっくりと目を開ける。

「ロンドン……? 何かの撮影で?」
「そう。映画なんだけど、撮影だけじゃなくて、チェロの特訓も兼ねて」

 チェロ。耳馴染みのない楽器名が聞こえ、新一は今度こそ目を覚まして、すぐ目の前にいる志保を見つめる。

「おまえ、チェロなんて弾けるのか?」
「弾けないから、特訓するのよ」

 ぴしゃりと言い放つ志保に、そりゃそーだ、と新一は笑う。柔らかな枕に頭が沈んでいく。再び訪れる眠気はすぐそこまでやって来ているのに、不穏な気持ちが胸を支配する。

「しばらくって、どのくらいなんだ……?」

 新一が問うと、同じように枕に頭を預けた志保が、新一の胸元に顔を押しつける。前回、付き合ってから初めてこの家に来た時に彼女が置いていったシャンプーの香りが鼻腔をかすめる。壁にかけられたアナログ時計の秒針が小さく音を立てている。窓からは少しだけ空いたブラインド越しに都会の光がわずかに部屋を照らす。
 志保の髪の毛を無意識に指で梳き始めてしばらく経った頃、もぞりと新一の腕の中で志保が動いた。

「半年くらい」

 先ほどの質問に、志保の声が弱々しく答えた。半年。ずいぶんと長い時間だ。売り出し始めた時の宮野志保にとって、その間にメディアに顔を出さないのは痛手かもしれない。しかし女優として、志保はもう土台を固めている。次のステージに歩いていく彼女を止める権利は、自分にはない。
 そうか、と新一はつぶやく。今日の彼女の様子がおかしかった事に、ようやく合点がいく。彼女なりの不安の表し方を知る。胸の内に湧き上がりそうな空虚感から目を逸らすように、新一は両腕で志保を抱きしめる。同じシーツの中で、体温が溶けあう。

「じゃあ、おまえはチェロ弾きの役なんだな」

 次のスクリーンで映る彼女の姿を想像しても、きっと彼女はそれ以上のものを見せてくるのだろう。楽しみだな、と新一がつぶやくと、志保は顔をあげた。上目遣いに見つめられ、新一は思わず喉を鳴らす。

「工藤君」

 弱々しい声で名前を刻まれる。

「何だ?」
「……寂しかったり、しないの?」

 志保の問いに、一瞬沸いた空虚感が少しずつ姿を消していく。彼女の感情に直に触れ、新一は優しくなれる気がした。

「寂しいよ」

 志保の足先に、自分の足を絡める。

「けど、また別のおまえを見られるのが嬉しい」

 テレビ越しでも何でも、どんな形でも彼女を見続ける。朝日を浴びたホテルの部屋で交わした約束。自分達の関係を強くするもの。新一にとっての恋とは、そういうものだった。痛みに襲われても羨望や嫉妬に侵されず、ただ単純に彼女を守りたい。彼女を幸せにしたい。とてもシンプルに、彼女を好きだと思う。
 俳優として人間として、経験を積んだとはまだ言えない。自分は大人に守られた子供のままかもしれない。それでも、俳優として舞台やドラマの出演を再開したことで、ようやく彼女と同じ場所に立った気がした。あの頃よりも心はずっとクリアだ。
 志保の瞳から水分が溢れ出す。重力に従って頬を流れた涙が、枕を濡らす。新一は人差指でそれを拭う。温もりのあるものだった。
 おやすみ、と新一は志保の頬を撫でて、目を閉じる。
 しばらくしてから志保が寝息を立て始めたのを聞いて、新一はゆっくりと目を開けた。志保がシャワーを浴びている時の電話を思い出す。志保の訴えたい事がロンドン滞在の事だけではない事に、新一は気付いていた。恐らく志保と新一の関係についてだ。会う回数や会う場所を制限してきたつもりとはいえ、写真の一枚や二枚くらい撮られていても不思議ではない。現に、ある週刊誌が帽子やマスクで顔を隠した自分達二人が歩いている写真を志保の事務所に送って来ている事を、先ほど新一はマネージャーである有希子に確認をしている。
 有希子はやはり、自分達の関係に気付いていた。それでいて、知らないふりを続けていたのだ。申し訳なさと恥ずかしさと感謝の気持ちで、頭の中は混乱を起こす。それでも新一にとってそのスキャンダルは痛手ではない。しかし、志保にとってはどうだろうか。その答えがロンドン滞在になるのだろう。
 負けてたまるか、と新一は思う。この恋は誰にも邪魔をさせない。志保の寝息を聞きながら、新一は心に誓う。



 十月の風が頬を撫でる。今日も電車に乗って大学に通う。

「あの、工藤新一君、だよね……」

 講義室の端の席でミステリー小説を読んでいると、女子二人に声をかけられた。彼女達が同じ講義をとっている学生なのかどうかさえ、新一には分からない。

「そうだけど……」
「ああ、よかった。今ね、夕方に『ムーンライト』の再放送が流れてるんだけど、やっぱり工藤君って素敵だなって思って」

 ボブカットの女子が、落ち着いたトーンで話す。自分のファンにも色々な人物がいるが、彼女達はとても聡明に思えた。

「ああ、観てくれているんだ?」
「もちろん!」
「あの頃、俺はまだ高校生で色々と迷いがあったから、今以上に演技ができていなくて恥ずかしいんだけど」

 文庫本を持ったまま新一が視線を落とすと、二人ともそれこそ劇団員のように全力でかぶりを振る。

「そんな事ないよ! マモルがアキコ先生を思う気持ち、すごく切ないし、きゅんきゅんするよ!」
「アキコ先生って、宮野志保だったんだね。今も会ったりしているの?」

 もう一人のロングヘアの女子が、新一に訊ねる。無垢な瞳はきっと何も疑っていない。新一は笑って質問をかわす。――しばらく会えないけれど、俺達は大丈夫。声にならない回答を、心の中でつぶやく。
 まもなく講義開始の時間となり、二人は自分達の席へと戻っていった。――あれって工藤新一だったんだ、意外に普通じゃね? 男子学生の声がひそひそと聞こえる。今は気になる事もない。ただ目の前に広がる平穏な日々に感謝をするだけだ。
 講義が終わり、パーカーを被って講義棟を出る。澄んだ秋空が鮮やかに広がっていた。人の群がりが見え、目を凝らすとそこには慣れた様子を振る舞いながらも困惑している服部平次が囲まれていて、新一は苦笑をこぼしながらその前を通り過ぎる。
 最後に志保に会ってから一週間が経っていた。寂しくないの、という彼女の質問に対して、新一は考える。きっと寂しさが胸の内から消える事はない。そしてそれは、大きな愛を受け取っていても同じなのかもしれない。人間は貪欲な生き物だ。これは試練だとも思う。心を重ねた彼女と同じ未来を見据える為の。
 ポケットに入れていたスマホが震え、新一は立ち止まってスマホを手に取る。

 ――おはよう

 大陸の向こう側、日本時間から八時間遅い時刻を刻んだ志保からの簡潔な挨拶に、新一はスマホを抱えたまま小さく笑った。背後からは新一を呼ぶ服部平次の声が聞こえ、新一は志保への返事をタップしてからゆっくりと振り返る。
 午後一時の秋の太陽が高い位置からキャンパスを照らしている。一日はまだ終わらない。