②4-2

 先ほどと新一と過ごしていたツインルームと同じ配置の部屋の中は、耳鳴りがするほど静かだ。

「志保ちゃんは、あの子を好いてくれているのね」

 ほんの少しの沈黙の後、有希子が志保の肩に触れた。それは新一とは違う、母親を思わせるように温かさに、志保は思わず有希子を見返す。
 誰にも告げた事のない恋心だった。ましてや、『ムーンライト』関連の仕事以来、新一と仕事をする事もない。自分の気持ちなんて誰にも知られるつもりなどなかったのに。

「どうして……」

 疑問と口にすると、有希子がふっと笑って志保から手を離した。

「志保ちゃんさ、どうしてあたしが女優を引退したか、知ってる?」

 突然話題が変わり、志保は座りなおして有希子を見上げるが、その表情からは何も読みとれない。藤峰有希子は結婚を機に引退されたとされている。そこには悪意のつもる噂話があったが、志保には真実を知る由もない。

「……ご結婚、されたからですよね?」
「そうねー。当時若くてそれなりに男前だってもてはやされた作家と付き合っている事が世間に知られて、あたしはどうなったと思うー?」
「……あの、」

 何事もなかったように問いかけてくる有希子に、志保は戸惑いを隠せない。

「やっぱり、噂のように色々嫌な事が、あったんですか……?」

 自分が生まれる前の話でも耳に入って来るくらい、藤峰有希子という女優は偉大だったのだ。しどろもどろ志保がつぶやくと、有希子は足を組み替えて、その上に肘をついた。

「半分正解だけど、多分本当は違う」

 ホテル特有の薄暗い照明に照らされた有希子が、小さく嘆息した。

「ねぇ志保ちゃん。女流作家は恋愛をすると筆を折るって逸話、知っている?」

 有希子の問いかけに、志保は眉を潜めるが、その返事を待つ事もなく、有希子は言葉を続ける。

「それをおんなじ。あたしはあの時、すごく怖かった。今までできていた事が、急にできなくなって、でもそれは感覚の問題で、何も言い訳ができなくて」

 その言葉に、志保は今日の出来事を思い返す。プロモーションビデオの撮影で、唐突に感覚を失った。確かに自分は台本通りに動こうとするのに、それを表現する事ができなかった。演技とはセンスだ。言葉では説明できない。

「演技のできない女優になり下がるくらいならって、あたしは逃げたのよ」

 淡々と語られるセリフの意味をようやく理解した志保は、ゆっくりと口を開く。

「それを、後悔しているんですか?」
「うーん、どうだろう。後悔しているって言えば、そうかもしれない。でもあの時に選択をしたから、今あたしは新ちゃんのマネージャーとして新ちゃんを守っていられるし、優作も自由にロスで生活ができているという事も、事実なのよね」

 語り終わってから、有希子は立ち上がる。お茶も出さなくてごめんね、と志保の手を取り、同じように志保を立たせた。

「だから、あたしは志保ちゃんには後悔をして欲しくない。新ちゃんの事を好きでいてくれるならあたしは反対しない。演技感覚を失っても、きっとそれは一時的なものだから、目先の事に捕われないで、悩む時は新ちゃんを巻きこんでいいのよ」

 今日みたいにね、と有希子は笑う。せっかくの同業者なのだから、と。やはり母親のように慈愛に満ちた表情に泣きたくなり、志保はうつむいて唇を噛んだ。女優という道を捨てた彼女だからこそ、発された言葉に意味がある。
 有希子の促され、志保は挨拶をして部屋を出た。廊下に広がる空気は先ほどのものと変わらない。志保は再びパーカーのフードを被って、早足で自分の部屋へと歩く。
 新一との関係を知らされてからすぐに勘づくなんて、さすがは新一の母親なだけある。志保がひた隠しにしたかったもの。有希子の言う通り、志保は浮かれた心を持っていた。このスランプはその代償だと思っていた。
 もう新一の感情に迷いたくないと思う。パーカーのポケットに入れていたカードキーで部屋のドアを開けると、そこには新一が立っていた。

「おかえり」
「……ただいま」

 志保が言うやいなや、新一が志保を抱きしめる。先ほどと同じ格好のままだった。

「どこかに行っちまったのかと思った……」

 志保は恐る恐る震える手で、新一の着ているカーディガンごと抱きしめ返す。これは三か月前に志保が返したものだった。
 眠っている新一に書き残しもせずに部屋を出ていった事を、今更悔む。

「ごめんなさい。ちょっとだけ、外の空気を吸いたくなったの……」
「まさか、ロビーまで降りたのか?」
「いいえ、廊下だけ」

 抱きしめ合った格好のままで、一通りの会話をする。
 新一の寝顔を見るだけで逃げたくなるような息苦しさを覚えたのに、変わらない新一の体温にほっと安堵する自分自身に志保は気付いていた。
 この体温を手に入れたら、失った時にはどうするんだろう。

「……志保?」

 志保の様子を気にするように、新一は志保の顔を覗きこむ。少しだけ眠ったとはいえ、表情から疲労の影は薄れていない。だけど、透き通ったブルーの瞳、そこには志保が移っていて、真実を潜めているようだった。
 永遠など存在しない。撮影を中断しているプロモーションビデオの歌詞を思い出す。別れは必然なのかもしれない。むしろ別れのない出会いの方が少ないのかもしれない。
 新一が望めば自分の魂ごと新一に渡せるほど彼を好きなのに、それでも志保は新一の愛情を素直に受け取る事に戸惑う。首を横に振り、何でもない、と微笑む事しかできなかった。