②4-1



 本当に欲しかったものは確実な関係性ではなく、約束のある未来だ。



 4.You’re my lover



 シャワーを浴びて部屋に戻ると、片方のベッドの上で新一が眠っていた。ここに来た時と同じ格好のまま、布団もかけず、しかも大学で使っている教材なのか小難しそうな本を開いたまま寝息を立てている。
 志保はソファーに座り、テーブルに置きっ放しにしてあった台本を手に取る。シャワーを浴びたせいか、首筋を汗が伝った。
 つい先ほどの事を思い出す。ひとしきり泣く志保を黙って見守っていた新一は、落ち着いた後で志保の悩みの種であるシーンの確認に付き合ってくれた。セリフのない台本と、元となる歌の歌詞を一通り目にした新一が、そっと台本を閉じた。

「失恋の歌だな」

 あれほど愛だとか恋だとか、ありふれた恋愛模様に嫌気を示していた新一が、眉を潜めてつぶやいた。

「主人公の男は、未練があるんだ」
「そうね。私は、元カノってところよね」
「この元カノ……、昔の恋人は、この男をどう思っていたんだろな」

 新一に訊ねられ、志保は再度歌詞を眺める。男視点で綴られた言葉の中に、未練の対象である女の気持ちはどこにも書かれていない。志保は少し考え、それを決めるのは自分ではないのではないかと思う。その迷いが演技に現れているのだとしたら、考えを改めなければならない。

「幸せ……、だったのよね」

 何気ない日々の中、女は男に微笑む。手を差し伸べられ、優しく握り返す。抱きしめられて、その温もりに目を閉じる。キスをした後ではにかむように笑う。男を想っている故の行動だった。
 志保は、隣に座る新一を見上げた。台本の男を思う。

「愛していたわ」

 志保がつぶやくと、新一は驚いたように目を見開いた後、ふっと笑って志保の頭を撫でた。大きな手の温もりに、志保は目を閉じる。
 別れは必然だったかもしれない。だけど、台本の中にいる男女は確かに想い合っていて、その過去は確かな真実だ。何があったかは二人にしか分かり得ない事だった。それでも、志保は男の歌う過去を演じるのだ。
 シャワーを浴びるまでの出来事を志保は反芻する。一通り確認を終えた時にはすでに夜の十二時を過ぎていた。新一に促されるままシャワーを浴びた後、今に至る。新一は起きる様子もない。
 ページをめくり終えた志保は、台本をテーブルに戻して立ち上がる。新一の寝息を感じるだけで、胸が詰まるように痛んだ。もう一つのベッドから布団を剥ぎ取り、新一にかけるが彼は起きる気配もない。規則正しい寝息から逃げるように、志保はパーカーのフードをかぶり、廊下に出た。
 どんなに愛し合っていても、共に生きられない場合がある。それは何気ない日常の一コマだ。好きだと告げながらも志保に気持ちを強要しない新一も、きっと同じような思いを抱えているのだと志保は知っていた。

「――宮野志保ちゃん?」

 自分を示す声に、志保はびくりと肩を震わせる。エレベーターホールに設置されたソファーに座る黒髪の女が、自分をじっと見つめていた。ひどく綺麗な顔立ちに、志保は記憶を巡らせ、フードを深く被り直す。

「コンバンハ」

 見た事のない姿の女だったが、声には聴き覚えがあった。このタイミングでこの場所にいるという事は、もしや。

「……有希子さん?」

 怪訝な態度を隠さないまま志保がつぶやくと、黒髪の女はふっと笑った。

「さーすが志保ちゃん。よく分かったわね」
「それ、変装のつもりですか? 有希子さんは変装の名人って何かで読んだ事ありますけれど……」
「あら、詳しいのねー。でもさすがに時間なかったから、ちゃんとした変装はできなかったわ」

 パンツスーツ姿の有希子は、足を組んだまま志保を見上げる。素朴な女を演じているにも関わらず、相変わらずの雰囲気を持っていた。

「それよりこんな時間に廊下に出てきて、どうしたの?」
「……喉が渇いたので、飲み物でも買おうかと」
「お財布も持たないで?」

 有希子の鋭い指摘に、志保は今度こそ押し黙る。今夜このホテルで新一に会えたのは、有希子の計らいがあったからこそだ。

「志保ちゃん、私も部屋をとっているのよ。そっちに移動してからゆっくり話さない?」

 有希子の提案に断れるわけがない。ソファーから立ち上がった有希子の後をおずおずとついていく。先ほど志保達が過ごしていた部屋とは真逆へと歩き、ドアを開ける。有希子に促されるまま、志保は奥にあるソファーへと座るが、居心地が悪い事には変わりない。

「有希子さん、今日はすみませんでした」

 膝の上で両手を握りしめながらつぶやくと、隣に座った有希子が興味深そうにうつむく志保の顔を覗きこむ。

「新一とは付き合ってどのくらいなのー?」

 突然の質問に、志保は一瞬何の事かを考える。

「ええと……、付き合ってはないです」

 付き合ってない、と有希子は復唱するように言う。一人息子の事だというのに、浮かべる表情はどこか他人事のようでもあった。

「驚いた。あの子が必死になってあなたに会いたいって頼みこむから、てっきり付き合っているのかと」
「……すみません」

 恋を重ねる事に傷つき続けるのだと訴えた新一を思い出した。三か月前、服部達と一緒に飲みに行った夜の事だ。今になって彼の気持ちが分かった気がした。
 志保のスランプは、密かに眠る恋が原因だったのだ。