②4-3

 ホテルのツインルームのベッドに潜り込み、志保は目を閉じる。バスルームから聞こえてくるシャワーの音が少しずつ遠ざかるのを感じていた。



 後悔はやまない。
 それは志保が十四歳になろうとする時の話だ。オッズアイを持ったキュラソーの言う通り、赤井秀一が帰国し、ブラックパールの所有する事務所に来るかもしれないと少々騒ぎになっていた。

「志保」

 この劇団内で志保を本名で呼ぶのは、家族くらいだった。多忙の両親は志保と行動を共にする事は叶わず、志保が幼い頃は姉の明美が面倒をみてくれていたくらいだ。

「私、大君に会いに行くよ」

 諸星大。それは赤井秀一が劇団内で使用していた芸名だった。明美は彼の事をそう呼んでいた。しばらくは本名だと思い込んでいたようで、笑い話にもならない。
 ――そんな男の為にお姉ちゃんがアメリカに行くなんて許せない。
 記憶は定かではないが、そのような事を志保が言い出し、少々の口論になった。

「お姉ちゃんに本名も教えないで、相談もなしに勝手にハリウッドデビューをした男を、信用するというの?」

 いけすかない男。志保が赤井秀一に対して抱いた印象だ。
 無機質な事務所の一室。机の上には台本が何冊も重なっている。

「志保……」

 震える声でつぶやいた明美が志保の肩に触れようとするのを、志保は思い切り振り払った。この気持ちを志保は言葉で説明できなかった。
 悲しみとも違う。寂しさに似たもの。――後で思えば、それは嫉妬に近いものだった。
 両親が離れて過ごしていたその当時、志保にとって何よりも姉の存在が大きかったのに。
 手を振り払われて呆然とする明美をよそに、志保は部屋を出る。そこには黒いコートを羽織った幹部達が行き来していて、ライが事務所に来ているという例の噂は本当なのかもしれないと志保は制服のプリーツスカートをぎゅっと握った。
 明美が劇団の事故に巻き込まれたのは、それからすぐの事だ。
 後悔はやまない。――お姉ちゃん。何度呼んでも、明美は戻らない。同時にこの世を去ってしまった両親も、仲間達も、もういない。



 はっと目を覚ます。整わない呼吸に胸を抑える。冷や汗で首の後ろ側が湿っている感触に、不快感が増した。
 電気の消された部屋の中、窓から零れる外灯だけが頼りだった。視線を移すと、同じベッドの中で新一が寝息を立てている。ツインルームだというのにわざわざ同じベッドで眠る新一に呆れを覚え、それでも規則正しい呼吸に志保は安堵する。
 枕元にあるデジタル時計は、午前二時を示していた。静まり返った夜の空間の中では、日頃よりも聴覚が研ぎ澄まされるようだった。遠くからエンジン音が時折響く。別の方角からはパトカーのサイレンが聞こえた。都会の夜は眠る事を知らない。
 昔の夢を見たからだろうか、肩元に隙間風を吹かれたような寂しさを覚える。隣で眠る新一からは、自分と同じシャンプーの香りが漂い、どうしようもない不安に駆られた。プロモーションビデオの撮影の撮り直しは、来週行われる。明日は別の仕事が待っている。
 テレビドラマで本格的にデビューをしてから一年と少し、ただがむしゃらに仕事をしてきた。少しずつ増えていく仕事に充実感を覚えていた。だけど、ふと振り返ってみたら、この先に対して途方に暮れる。自分はいつまでこの仕事をしていくのだろう。また同じ失敗をしないとも限らないのに。
 結婚を決めた頃の藤峰有希子も同じような思いを抱えていたのだろうか。だけど、志保は新一だけを選ぶことなんてできなかった。なのに、その感情に矛盾するように志保は新一の着るTシャツの裾にそっと触れる。新一の呼吸が少しだけ乱れ、寝返りが打たれてベッドマットにわずかな振動が走る。

「……志保?」

 寝ぼけたような声で名前を呼ばれ、志保は咄嗟に手を引っ込めた。それに気付いたのか、新一はふにゃりと笑い、片腕で志保を抱き寄せる。

「おまえさ、俺の事を好きだよな……」

 いつもよりもゆっくりした口調とはいえ、確信を含んだような言い方に、志保は否定する術を持っていなかった。
 その言葉とは裏腹に、背中にまわされた新一の手の平の体温で、新一の想いが浸透するようだった。何度も聞いた言葉だった。彼は自分を好きだと言う。今も昔も好きだと言う。――それは、自分も同じだ。
 簡単に手に入れられない恋だと思っている。それは、自分達の職業のせいかもしれないし、他に込み入った感情が、恋心を制御している。志保も、恐らく新一も。
 もう何も失いたくないのだ。志保にとって大切な人を作るということは、失う事に等しかった。あんな思いはもう二度としたくない。だから一人で生きていこうと思っていたのに、再び出会ってしまった。自分にも負けたくないと、澄んだ瞳を見せた丘の少年に。
 あの頃の同じように新一の気持ちはまっすぐだ。それが純粋に自分を射し続けて、苦しい。恋とは苦しくて悲しいものだった。演技では味わうことのない激情を、志保は自分の中に見つけ出してしまった。
 こちらに顔を向けたまま、再び目を閉じて寝息を立てる新一の腕の中に閉じこもるように、志保も目を閉じる。明日も仕事だから眠らなければならない。耳に触れる鼓動の音がどちらのものか、志保には分からなかった。