②2-2

 テーブルにドリンクが運ばれて来るのを、志保は息を詰めるように見ていた。

「そんじゃ、工藤も和葉もお疲れさん!」

 服部の明るい声かけに合わせたグラスがカツンと軽く響いた。個室居酒屋の一室、廊下からも隣の部屋からも、騒がしい声が響いている。

「いやー、ほんまに会ってみたかったんやで、宮野さん」

 コーラを飲みほしながら服部平次が軽快に笑った。初対面にも臆さずに笑顔を見せる彼の姿が本質に近いのかもしれない、と志保は初めて間近で見るタイプの人間を分析する。

「……ありがとう」
「『瞳の中の真実』もなぁ、宮野さんが最後に正体をばらすシーンな、めっちゃ鳥肌たったわ」
「あ、分かるわー。アタシもドラマ録り溜めしててんけどな。もう続きが気になってもーて、結局一気に見てしもーたもん」

 馴染みのない関西弁で話す二人の口数の多さとは対照的に、志保の右隣では静かに新一がウーロン茶を飲んでいた。会うのは久しぶりだというのに、志保は顔を向ける事をできない。

「工藤も観てたやろ?」

 そこへ、新一の目の前に座る服部が身を乗り出すようにして新一を無理やり会話に引き込み、新一が静かにグラスをテーブルに置いた。右側から緊張が伝わり、志保はぐっと口を閉ざす。

「観てたよ。受験ベンキョー、そっちのけで観てた」

 一瞬しんと静まった空気の中で、志保はちらりと新一を覗き見る。彼の端正な横顔は、以前よりもずっと大人びていた。先ほどのステージでは高校生だった彼は、今はもう大人だ。
 固まった空気を溶かすように、服部と和葉が笑い出す。そして口々に、最近気になった映画やドラマ、舞台の話で盛り上がった。新一は二人の相槌に応えるように、それでも志保には向けない表情で、会話に参加していた。
 志保は取り分けられたサラダを、持った割り箸で口に運ぶ。瑞々しい緑の味が口の中で弾けた。

 ――シェリー……

 映画やドラマ、舞台の話。尊敬する俳優の話。演技の話。次回の公演の話。地方公演の話。移動劇団は、どこにでも走った。その夜はテントの中で劇団員と食事をした。笑い合っていただけではない。演技について口論する事もしばしばあった。子供だった志保にとって、そこは決して居心地のいい場所ではなかった。――なかったはずなのに。

「……志保ちゃん?」

 志保の前に座る和葉が慌てたように志保を見た。志保は持っていた箸をテーブルに置き、慌てて立ち上がる。新一から放たれた真実を暴くような視線に気付いても、振り返られなかった。個室を出て、居酒屋の店員とすれ違うようにして早足で廊下を歩く。トイレの前の設置されたベンチに座り、うつむいた。
 食事と共に、俳優達とこうして演技について本心で語る機会を得たのは、久しぶりだったのだ。封じ込めていた記憶が溢れだすように、閉じた瞳の裏には当時の光景が鮮明に映った。

「お姉ちゃん……」

 すでに記憶の向こうへと消え去ろうとする姉の笑顔を思い出した。彼女は本格的に女優になりたかったわけではない。何よりも普通の生活を夢見ていたはずだったのに。
 どうしようもない孤独感には慣れている。沸き上がる感情に左右されるほど、もう子供ではない。なのに、志保はこの場所から動けずにいる。それでも、周囲は慌ただしく動き続ける。

「あの……、宮野志保さん、ですか?」

 それでも志保は女優だった。『瞳の中の真実』を放送されて数週間が経った頃から、志保は安易に電車に乗る事ができなくなった。世間の言葉を借りると、志保は売れたというらしい。
 自分を呼び掛ける声に、志保は自分じゃない誰かになりきる。以前はカフェでもどこでも、そうやって凌いできた。それでも自分を伺う視線は逃げる事もなく、気配はずっとそこに佇んでいる事に恐怖を覚えた。

「宮野志保さんですよね?」

 男の声だった。志保はうんざりしながらゆっくりと顔をあげる。

「え……?」

 そこにいたのは。

「宮野さん、あんまり無防備にしたらあかんで」

 服部平次だった。よく考えてみれば、先ほどの声も彼のものだった。それでも気配は別人のものだった。彼は持ち前の演技力で、志保に声をかけたのだ。あまりに安堵したせいか、声も出せずにただ呆然と彼を見上げる志保に、服部は苦笑する。

「様子がおかしかったから見に来てん。大丈夫か?」

 キャップ帽を深く被る服部が、志保の顔を覗きこむ。志保は手で涙を拭い、黙ってうなずいて立ち上がる。

「ごめんなさい……」

 志保の涙声に、服部が笑顔を見せてどういたしまして、と言う。無邪気さは黒羽快斗みたいだと志保は思う。だけど、きっと服部のほうが表裏もなく、この世界を上手に生きている。

「ほんまは工藤が来た方がよかったんやろうけど、アイツ、頑なに動こうとせーへんし。脅かせたみたいでごめんな」
「名演技だったわよ……」

 服部の声でようやく気付かされた。自分はテレビに映る人間だった。志保の目の前を歩く服部の背中を見つめる。服部と新一が仲が良いという事は、以前から知っている。

「服部君……、工藤君から何か聞いていないの」

 例えば、志保と新一の関係を。新一が自分を迎えに来ないのは当然だった。もう自分達は、アキコとマモルを演じた頃には戻れない。志保の問いに、服部は笑う。

「俺が宮野さんに伝えられるような事は、何も聞いてへんで」

 そして先ほどの個室のドアが開かれる。そこには心配そうな表情を浮かべた和葉と、淡々と食事を続ける新一がそこにいた。