②2-3

 歩いて帰りたい、と言い出したのは新一だった。

「悪いんやけど、俺らはこれから事務所に寄らなあかんねん。せやから、宮野さん、工藤を頼むわ!」
「ごめんなぁ、志保ちゃん」

 キャップ帽を被った男とポニーテール姿の少女は、すかさず居酒屋を出るとマスクで顔を隠し始めた。そういえば以前、平次と歩く時は気を遣わなあかんねん、と和葉がぼやいていた事を志保は思い出す。
 二人がタクシーを捕まえたのを見届け、志保は新一の後ろを歩く。大通りから外れた裏道でも、居酒屋が多いせいか人通りが多く、自分達に見向きする人間はいない。

「宮野。俺は勝手に歩いて帰るし、気にすんな」
「そういうわけにはいかないわよ。服部君に頼まれているのよ」

 先ほど別れた二人とは違い、新一はただ黒縁の眼鏡をかけただけで、背中を丸めて歩くその姿はどう見てもイケメン俳優だともてはやされる人気者には見えなかった。その眼鏡姿は以前に見た事あるものだった。新一が非常識に早朝から志保を訪ねてきて、それからロスへと旅立った日。

「あ……」

 志保は立ち止まり、新一を呼ぶ。トレンチコートのポケットに両手をつっこんでいる新一がゆっくりと振り返る。

「何?」
「私、工藤君に借りたままのものがあった」

 唐突に思い出す。あの朝、肩にかけられたグレーのカーディガン。メンズ物のそれは志保には大きく、新一との体格差を思い知らされた。

「俺、何か貸したっけ?」
「上着。返そうと思ってたのに、忘れてた……」

 違う、本当は覚えていた。新一がロスから帰って来てからの数日間。志保の部屋に籠った彼に、返そうと思っていたのだ。なのに、その記憶を封じ込めるような出来事があったのだ。
 新一とキスをしたのは、二回だけだ。

「別にいーよ。捨てといて」
「そういうわけには……」

 言いかけて、口をつぐむ。新一と二人きりになるのは、本当に久しぶりだった。昨年の夏。志保の部屋での出来事。キスをした翌朝、新一は志保の部屋から消えていた。それからしばらくして、公開された映画『時を止めて』の番宣によってテレビバラエティーの中で再び新一が姿を見せていた。そして最後に会ったのは、志保の初めての舞台の打ち上げだ。
 あの夜。真実に近づいたようで、何一つ紐解いていない。好きだと告げた新一の心の中さえ、志保は覗く事ができない。

「宮野」

 嘆息するようにして、新一は志保を見下ろした。度の入っていない眼鏡をかけた姿は、彼の憧れる小さな名探偵のようだ。

「おまえは、俺をどうしたいんだよ」

 悲痛さの混じる声に、志保は思考を巡らせる。俳優としての工藤新一を邪魔するわけにはいかなかった。それでも、緑に包まれた丘の上、あの光景は今でも志保を支え続けている。

「あなたが……」

 四月も終わるというのに、夜の風は冷たい。志保は一度咳払いをし、もう一度新一を見上げる。

「あなたが、傷つかなければいいと思ってるわ」
「俺はおまえを好きなのに?」

 うんざりしたように新一が顔を歪め、視線をアスファルトに落とした。建物一つ越えれば大通りに出る。エンジン音は止まることなく響いているのに、周囲では酔っ払った人々が騒ぎ声をたてているのに、やけに新一の声だけがクリアに鼓膜を揺らす。

「ステージに立てば別の女を好きになって、多分この先もずっと、俺はいくつも恋をするんだ。それでも、俺はおまえを忘れられない。傷つかないわけがない」

 新一がうんざりしているのは、彼自身なのだと志保は気付く。志保は新一のコートの裾を掴む。

「工藤君」

 そろそろここで立ち話をするのも限界だ。志保は鞄からキャップ帽を取り出し、深く被る。まさか自分が服部平次達と同じように周囲を警戒する日が来るとは思わなかった。

「歩きながら話さない?」

 歩いて帰りたいという新一の言葉を思い出し、彼の手を取る。新一はぐっと押し黙り、ただ志保に手を引かれてゆっくりと歩き出した。握った指先は、ひどく冷たかった。