②1-3

 昼間の電車内は、通勤時間帯ではないにも関わらず、想像以上に人が多く驚いた。新一は子供の頃からあまり在来線にに乗った事がなかったのだ。
 大学への通学は、よほどの混乱にならなければ電車で通う事に決めていた。だから卒業式の前日に試したのだ。自分の財布から小銭を出して切符を購入するという行為は、ひどく新鮮で、心がざわついた。その高揚感の中で、巷でよくある「どこか遠くに行ってしまいたい」という感情により幕張まで行ってしまったのは、また別の話だ。
 キャップ帽を深く被り、うつむいてスマートフォンを片手で操作する。ニュースのエンタメカテゴリを開くと、黒羽快斗が映画『怪盗キッド』をクランクアップした事が掲載されていた。
 電車を降り、ホームから改札口へ繋がる階段を降りていく。目の前に広がる看板広告にどきりとした。リップグロスを片手に微笑む宮野志保が、電車から降りたばかりの人々に微笑みかけている。
 今年一月から放送されたドラマの主演を務めた志保は、以前よりもずっと知名度をあげていた。



 舞台公演が続くと、身体は自然に疲労感を覚える。

「じゃあ工藤君って、舞台ない日は大学に行ってんの?」

 以前から馴染みのあるメイクアップアーティストが、新一の髪の毛を触りながら鏡越しに言う。

「うん、そうだけど……」
「ええー、工藤君十分稼いでいるんだしさ、これ以上ガッコで勉強することあるの?」

 彼女はアーティストとしてかなりの年数を活動してきているが、全く年齢を感じさせない。日々刺激を受けながら生きる人間は、新しい物に対しても貪欲だ。

「色々あるよ」

 そしてそれは新一も同じでありたいと思う。
 他人に頭を触られると眠気が増してくる。舞台が始まった頃は緊張でそれどころではなかったのに、慣れは怠慢を生む事もある。そうならないように、新一が欠伸を噛み殺した時、ドアのノックが軽やかに鳴った。
 メイクアップアーティストが誰かしら、とつぶやきながら新一から離れ、楽屋入口へと向かう。開けたドアからは思いもよらない人物が現れたのを、新一は鏡越しで見ていた。

「おう工藤! しっかりやりよるかー?」

 顔を出したのは、親友だと公にもされている服部平次だ。ちなみに服部も新一と同じ大学に進学したが、学部が違う事もあり、まだキャンパス内では出会った事はない。

「何しにきたんだよ、おまえ……」
「つれへん事言うなや。あ、メイクさん邪魔してすまんな!」

 服部に笑顔を向けられた彼女は、頬を赤らめて首を横に振っていた。年齢は工藤有希子より上だと思われるが、もしかしたらファンなのだろうか、と鏡越しに様子を見ながら新一はため息をつく。

「ほんまは初日に来たかったんやけどな。緊張するからやめてやって和葉に言われてん」
「緊張って……。遠山さんは場数こなしているだろ」
「せやけど、いつも初日はあかんらしいで」

 新一は舞台初日を思い出そうとするが、本番中の記憶はほとんどないのだった。しかし、公演後の様子も変わらなかった和葉を思い出し、緊張するのは服部が来るからではないかと考える。

「今日は遠山さんに来る事を伝えているのか?」
「ああ、終わったら飯行く予定やし、工藤もどうや?」

 同郷の幼馴染の二人を邪魔して行けないのかもしれない、と思いながらも、二人は新一にとって刺激的な俳優であり、新一がうなずくと服部は白い歯を見せて笑った。



 数々の照明の隙間に、見覚えのある茶髪と白い頬が見えて、新一は息を止めた。しん、と耳鳴りがするほどの静寂さを味わう。全身に浴びるように本来の静けさに襲われた時、人は道を見失うのかもしれない。

「――先輩?」

 目の前でセーラー服を着た和葉が怪訝な顔をして新一を見上げる。いや、違う。今の彼女は遠山和葉ではなく、自分と運命的な出会いを果たした天才的なピアノ弾きの少女だ。

「おまえが……」

 思わず声がかすれた。

「おまえの溜め込んでいるもの、全部ピアノで、ぶちまけちまえよ!」

 台本と違う言葉だった。沸き上がるような感情とともにセリフを吐き捨てると、目の前にいる後輩がおずおずと鍵盤を鳴らした。ポン、と響いた音色は、彼女の気持ちそのものだった。天才故に生きにくい彼女の心の叫びだ。
 先の見えない恋は、いつもこんな風に悲鳴をあげているのかもしれない。静寂に襲われたからこそ、ようやく知る事ができた。
 眩しい人工的な光の下で、新一はただ彼女のピアノのメロディの中に佇んでいた。

「おまえ、あん時アドリブやったやろ?」

 公演後、再び楽屋にやってきた服部が、和室の壁に寄りかかり、メイクを落とす新一に向かって笑う。

「……おまえ初見のくせに、よく気付いたな」
「そら気付くって。工藤の動き、一瞬おかしなったもん」

 ライトを浴びるたびに自分の肌が焼ける気がする。塗られたファンデーションをコットンで落とし、ようやく素顔に戻ると、鏡の前にはくたびれた工藤新一が映っていた。

「なぁ、おまえって関係者席にいたんだよな?」
「そうやけど……。なんでや?」
「いや……」

 新一が椅子から立ち上がって口ごもると、服部の持っているスマートフォンが鳴った。

「おう俺や。ああ、今工藤の楽屋におるけど……。え? そうなん?」

 慣れた口調からすると、相手は和葉なのだろう。これから三人で食事に行く約束については、新一も有希子に伝え済みだ。
 新一は床に置いてあるトートバッグを持ち、通話を終えたばかりの服部を見た。

「服部。今の、遠山さんだろ? 何かあったのか?」

 楽屋にかけられたトレンチコートを手に取り、袖を通していると、服部が苦い顔をする。

「いや、工藤がどう思ってんのか知らんのやけど、実は和葉が―――」

 服部の言葉を遮るようにドアのノックが鳴った。こちらの準備はもうできている。スマホを握りしめたままの服部をよそに新一がドアを開けると、和葉が立っていた。

「工藤君お疲れ様! 平次、こっちに来てるやろ?」
「あ、ああ……」

 和葉がいることは想定済みだ。だけど、そこにはもう一人。

「さっき平次にも言ったんやけど、志保ちゃんも来てくれたし、四人でご飯行かへん?」

 新一がステージの上から見たのは間違いではなかった。客席の中の、関係者席ではない、ステージに近い席で座っていた姿。彼女の視線はまっすぐに自分に向けられていた。
 和葉の後ろに遠慮がちに立っていたのは、今や話題の女優である宮野志保だった。