②1-2

「工藤君、寝不足なん?」

 スタジオでストレッチをしていると、背後から遠山和葉が顔を覗かせた。

「おはよう、遠山さん」
「おはよー。いっつも朝早いねんな。工藤君、売れっ子やから忙しいやろうに」

 スタジオにある小さな窓からは春の日差しが舞い込んでくる。朝八時半。稽古の時間は十時からだ。
 四月から、新一が出演する舞台『キセキの音』が公開される事が決定している。新一にとって初めて出演する舞台にも関わらず、遠山和葉とダブル主演を務める事になっていた。
 主に舞台で活躍する遠山和葉との力量の差は歴然だ。そもそもカメラの入るドラマと、生を感じる舞台は違う。新一がマネージャーである有希子に頼みこんで引っ張ってきた仕事だった。

「そんなことないよ。舞台に集中したいから、仕事量を減らしてもらっているんだ」
「それにしてもひどい顔色やし。仕事減ったっていっても、大学にも通うんやろ。忙しいはずやって」

 スタジオの端に荷物を置いた和葉も新一の隣に座った。ジャージからはみ出した手首は細い。志保と同じだ、と新一は思う。

「工藤君、シーン8のところ、ちょっとセリフ合わせせーへん?」

 だけど、志保を目の前にして襲われる息苦しさはやって来ない。

「いいぜ」

 新一は冷たい床から立ち上がり、和葉に向かい合う。和葉の目つきが変わる。新一も一つの魂を包み込む。

「先輩……」

 和葉は、登場人物になりきって新一を見上げる。そこにはもう、和葉らしい無邪気な瞳はなかった。

「卒業おめでとうございます」
「おう、サンキュ」

 台本通り、新一は左手をズボンのポケットに手を入れたまま、右手を和葉に差し出す。

「これ、やる……」
「何?」
「第二ボタン、やるよ」
「どうしてあたしに……」

 彼女はピアノを弾く少女だった。そして自分も、ピアノを愛する少年だった。一歳差で生きる少年少女。天才故に生きにくいこの世の中で出会った運命。

「さっきの卒業式で、おまえ、ピアノを弾いていただろ」
「どうして分かるんですか。誰にも言っていないのに」

 ボロボロに傷ついてでも自分の音を守ろうとする彼女を、心底愛しいと思った。



 だから一緒にいることを選べなかった。
 誰よりも自分の世界を大切にする彼女を、彼女の未来を潰すわけにはいかなかった。毒だらけの世界の中で、余計な感情は必ず歪みを生んでしまう。
 彼女を好きだ。今も好きだ。思い出さない日は一日たりともない。
 ――突然沸き上がる拍手喝采に、新一ははっと我に返った。
 眩しいスポットライト。セーラー服の襟元が残像が瞼の裏に焼き付いている。光の数に目がくらみ、新一は動揺した。視線を落とすと、学ランを着ていた。汗ばんだ手は卒業証書を握っている。

「工藤君、大丈夫?」

 スタッフの一人が自分に駆け寄って来る。ふと視線を動かすと、垂れ幕が下がっていた。その向こうでは先ほどから変わらない大きさの拍手が響いている。
 差し出されたスタッフの手に卒業証書を渡す。ヘアメイクが駆け寄り、コットンで新一の額に浮かんだ汗をそっと拭っている。まるで魂の抜けたような自分を中心に、周りだけが忙しなく動いている。

「工藤君、どうしたん!? 大丈夫?」

 セーラー服を着た和葉も舞台袖から駆け寄ってきた。彼女の目が赤いのは、先ほどこのステージの上で泣いたからだ。彼女は自分を恋しがって泣いていたはずだ。

「遠山さん……」

 ようやく出した声はひどくかすれていた。

「俺、大丈夫だった……?」

 四月某日、舞台『キセキの音』の公開初日だった。都内にある劇場には数多くの客が入り、ありがたくも満席だと本番前に伝えられていた。
 ピアノの音が鳴った瞬間の先を、新一は覚えていない。

「大丈夫やったよ。ほんまにアタシの先輩なんかなってときめいてもーたわ」

 笑いながら答える和葉に、それは俺も同じだ、と新一は思った。きっと本番の間は彼女に恋する高校生だった。
 ステージの上には出演者が集まり、並んでいく。垂れ幕上がりまーすという声と同時に再び観客席からの視線を浴びる。
 カメラを向けられるのとは別の緊張感を味わう。新一は志保を思い出す。彼女は幼い頃から人々の感動を肌で感じる臨場感を受け止めていたのだろうか。一度の公演だけで疲弊する心と、それに反してアドレナリンだけが高まっていて動悸が鳴りやまない。
 新一はようやく工藤新一に戻る。志保を好きだ。思い出さない日は一日たりともない。少しでも彼女に近付けているのだろうか。自分から途切れさせた鎖を、今も離せないままだ。