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6.海路の先へ



 病室の照明はやたらと白くて落ち着かない。六人部屋の病室のカーテンが閉め切れたベッドで、哀は寝返りを打つ。新一と過ごす木造アパートの薄暗さが恋しかった。
 食事も制限されている今、哀にできる事は家から持ち出した資料を読む事くらいだった。

「哀君、入るぞい」

 カーテンの音と共に入ってきたのは、東京からわざわざやって来た阿笠博士だった。哀がこちらに移り住んでからほとんど会う事もなかったというのに、博士はこんな時でも自分を気にかけてくれる。まるで本当の親のように。

「調子はどうじゃ?」
「すっごく暇だわ。食事もたいしてできないし。博士に持ってきてもらった資料、とても助かっている。ありがとう」
「病人の間くらいは、熱心に勉強せんでもいいじゃろうに……」

 椅子に座りながら苦笑する博士の目元にしわが浮かぶ。博士の家で暮らし始めた時からもう十年以上経っているのだ、年齢を重ねているのはお互いだった。

「検査の結果はどうじゃったんじゃ?」
「止血処置はできているみたい。胃に穴が開く前でよかったわ……」
「ピロリ菌反応は?」
「陰性。原因はただのストレスだって」

 言いながら哀は自分自身に呆れ、自嘲を零した。

「これじゃ、工藤君の事をとやかく言えないわね」

 入院して五日が経っていた。博士の前で新一の名前を出したのは初めてで、お互いの間でしんと静けさが微妙な沈黙の時間として、漂う。

「新一君も、入院をしているんじゃったな……」
「ええ。急性肝炎ですって。最近数値がよかったから油断してたわ……」

 思いのほか普通に博士と話せることにほっとしながら、哀はベッドの上に座ったまま前髪を掻き上げる。

「哀君が気にする事じゃない」
「分かってる……。ありがとう、博士」

 カーテンを隔てた向こう側でも、入院患者と見舞い客が話している声がところどころ聞こえてくる。家族、友人、恋人、同僚、きっとその関係性は様々だ。消毒の香りの漂うこの部屋を、哀は嫌いじゃない。

「新一君は……、まぁ元気とは言えんじゃろうけれど、どう過ごしとったか?」

 一度その固有名詞を出したことで、博士も遠慮がなくなったのか、おそらく一番気になっていた事を哀に訊ねた。

「基本的に家に籠っていたけれど、文章を書く仕事をしていたみたいね。月に一度は大学病院に通っていたし、家事もほとんど彼がしていたわ」

 話しながら、たった数日前まで機能していたその生活を懐かしく思い、喉の奥が震えた。この病室で眠っている間、何度も新一の夢を見た。ある時はスウェットを着ただらしない格好の姿、ある時は高校の制服を着こなした凛々しい姿、ある時は大人をだまし込む笑顔で子供の姿を演じていた姿。どの姿も、工藤新一そのもので、今を生きる彼にとって欠かせない姿だ。
 新一に会いたかった。たとえ面会拒絶された事実があったとしても、それを押しのける力が自分にはあると哀は信じている。とても卑怯な方法で新一の部屋に住み始めた頃と変わらない自分に呆れを覚えるが、それでも新一の傍にいる事を願った。

 気付けば十一月になっていた。入院してから二週間後、特に手術を要する事もなく、哀は退院の日を迎えた。

「哀君、こっちじゃ」

 入院病棟でお世話になった医療関係者に挨拶をし、哀は荷物を持って博士の呼ぶ方へと歩く。久しぶりに袖を通した私服は、なんだかむず痒い。
 病棟を出ると、正面玄関前には博士が借りたレンタカーが停まっていた。白いコンパクトカーはどこか無機質で、黄色いビートルを懐かく思う。
 後部座席のドアを開けて荷物を入れている時、ふと視線を感じて顔を上げた。車の天井越しに見えたのは。

「……工藤君」

 厚手のパーカーを羽織った新一に、博士も気付いたようだ。博士が新一に顔を向けると、新一は一瞬目を見張った後、静かに頭を下げた。

「新一君……!」

 運転席のドアを開けようとしていた博士が、新一に駆け寄る。衝動的にも見えた博士の動きに、哀は驚きながらも博士を追う。

「博士、待って……」
「新一君、君は一体何をしておったんじゃ……」

 突っ立ったままの新一の肩に手を置いた博士は、膝をがくがく言わせながら、声を絞り出すように言う。

「……ごめん、博士」

 博士をぼんやりと見つめながらつぶやいた新一の頬が白い。哀は自分の中に残る後ろめたさを隠すように、博士の背に手を置いた。

「博士、落ち着いて……」
「新一君。ワシは君に言いたい事がごまんとあるんじゃ。五年前、一方的に決められた君の話をワシは許していない」

 五年前。それは哀がこっちの高校に通い始めた頃の話だ。

「え、ちょっと待って。何の話……?」

 哀が赤井からの情報を頼りに新一の居場所を突き止めた後も、博士は新一と連絡をとるそぶりを見せなかった。心配をしながらも、それを新一が決めた人生ならそれいいと、干渉をしようともしなかった。
 その後にもあたる五年前に、博士と新一が連絡を取っていたなんて哀は聞いていない。

「博士。その話は灰原には言わないって約束しただろ?」

 病院の正面玄関前、白いコンパクトカーが停まっている傍で、新一の声だけが小さく響いた。