5-7

 今すぐにでも病院を抜け出そうとする新一を、横田は止めた。当然だった。

「工藤君、分かってる? 君はたった一日前に倒れたばかりで、まだ点滴で補助療法が欠かせない時期なんだよ?」

 そもそも今こうして病室を抜け出している事自体が問題なのだ。新一は焦燥感を押さえるように息を深く吐き、自分と同じくらいの背丈の横田を見た。先ほどよりもずっと彼の表情が見えるのは、空が明るくなってきたからだ。

「灰原、が、倒れたって……。なんで……?」
「急性胃炎……、いや、胃潰瘍かな。吐血もあったみたいだから」

 今になって目の前がぐらぐらと揺れる。めまいを覚えて新一は再びベンチに座り込んだ。最後に見た哀の顔がぼんやりと浮かぶ。
 好きだと伝えてしまったのは不可抗力だ。意識が薄れる感覚を、初めて怖いと思った。座り込んだ新一の頭をぽんと叩いた横田は、PHSを胸ポケットにしまいながら、ドアへと向かう。

「まぁ命に別状はないからさ。君は自分の治療に専念すべきじゃないかな」

 またな、と言い残し、横田は屋上から去っていった。朝焼けも浮かばない白ばんだ空と屋上のコンクリートの色が同じで、まるで浮遊空間のようだと思った。ここも海の中と変わりのない世界なのかもしれない。



 点滴をされている間は時間を持て余す。服部に持ってきてもらった推理小説を読みふけっていると、カーテンの向こう側から声がかかった。

「工藤さん、開けてもいいですか?」

 何度か検温にも来る女性看護師の声だった。新一は文庫本を手にしたまま返事をする。

「どうしたんですか? 何か検査でも?」
「いえ、あの……」

 カーテンから顔を覗かせた看護師は、歯切れ悪そうに新一を見た。

「工藤さんを面会したいという方がいらっしゃって……。でも、工藤さんの許可が必要だと、その方がおっしゃるんです」

 哀かもしれない、と一瞬でも考えてしまった自分に嫌気がさした。彼女は市民病院に運ばれたばかりの身であり、そもそも先に拒絶をしたのは自分だ。

「……誰?」
「工藤有希子さんです」

 二十代半ばに見える看護師に告げられた固有名詞に、新一はぐっと喉に力を入れる。

「いいよ、入ってもらって」

 新一が答えると、ほっとした表情を見せた看護師と入れ替わるように、有希子が入ってきた。

「こんにちは、新ちゃん」

 会うのはずいぶんと久しぶりだった。少なくとも新一の記憶の中では。
 ベージュ色のトレンチコートに赤いストールを首に巻いた有希子は、新一の記憶にある姿から少しも変わっていなくて、まるで人間ではないみたいだと思った。

「母さん、今日はわざわざ東京から来たのか?」

 挨拶もなしに新一が訊ねると、有希子は大きな目をさらに大きく見開いた後、困った表情を浮かべて口ごもった。

「あの……、本当はこの近くのホテルに、住んでいて……」
「そう」

 彼女が東京でもアメリカ国内でもなく、この近辺に住んでいたという事実は、そこまで驚くことでもない。新一のスマートフォンは主に有希子に監視されていた。新一に過ちを繰り返させないようにだ。
 有希子が自分に顔を見せなくなった理由に、新一は気付いている。彼女はきっと後悔している。追い込まれていた新一に対して、更に追い詰めたと思っている。彼女はただ、母親として正しい感情を持っていただけなのに。道を踏み外したのは自分なのに。

「父さんは元気にしてるの」
「優作は、締切に追われてて……。ごめんね、落ち着いたらきっとお見舞いに来てくれるわ」

 ベッドの前で立ったままつぶやく有希子に、新一は座るように促す。

「母さんが謝る必要なんてないよ」

 ベッド横に置かれたチェストは午後二時を示していた。有希子がトレンチコートを脱いて、丸い椅子に座る。コートを脱いだら彼女が痩せたことが一目で分かり、胸が痛んだ。今日も点滴を刺した右腕が冷たい。

「この人生を投げ出したくなったわけじゃないよ。もちろん、死にたいと思ったわけでもない」

 自殺願望だとか、世界への絶望とか、そんな大層なものを持っていたわけではない。きっと一連の事件は、事故に近い現象だったのだろう。他人事に思っていた事実が、新一の周囲によって現実味を増していく。自分の衝動的な行為がどれだけの人々を傷つけ、悲しませたのか、ようやく理解できた気がした。

「俺は、母さんにも父さんにも感謝してる。来てくれてありがとう」

 新一の言葉に、有希子は椅子に座ったまま泣いた。母の涙を見たのは、もしかしたら初めてかもしれないと、有希子の嗚咽を聞きながら新一は考えていた。



 哀ちゃんにも会ったの、と有希子は言った。市民病院への見舞いだけではなく、新一が不在にしていた夜にもアパートに訪れたという。
 たった十分ほどの間のたどたどしく繋がれた会話を思い出しながら、新一は再び早朝に屋上へと侵入していた。最後に雨が降ったのはいつのなのか思い出せないくらい、秋晴れが続く日々だった。

「君も懲りないねぇ」

 ドアの音と共に入ってきたのは、入院した夜に見かけた時と同じ横田だった。

「その言葉、そのまま返しますよ。今日も当直でもないのにオーバーワークですか」
「いんや、今日は当直」
「……結局サボってるんじゃねーか」

 思わず新一が低い声でつぶやくと、白衣を着た横田は新一の隣にどさりと座った。

「そういえば灰原君からメールで聞いたんだけど、君、彼女を面会拒絶にしたんだって?」

 今日は勤務中だからか、煙草を持つこともなく、空を見上げながら横田はあっけらかんと言い放つ。新一が黙っていると、横田は軽やかに笑った。

「ひどいなぁ。彼女、胃に穴を開けかけてまでして、君の為に頑張って来たのになぁ」

 秋の終わりを知らせる冷たい風が頬を刺す。新一は隣にいる横田を見た。

「灰原って、やっぱり俺の為に薬を研究してたり……するんですかね」
「なんだい工藤君。今更それに気付いた?」

 横田はおかしそうに笑う。

「最初に君が飲んだアポトキシン4869が細胞をアポトーシス化したものだったからね。その解毒剤と呼ばれるものによって、君の免疫系統も含めて遺伝子細胞が壊された、というのが灰原君が提出したレポートだ」

 今度こそ横田の言葉に、新一は喉の奥を冷やした。思いもしなかった薬物名がその口から飛び出した事に、驚きを隠せない。

「……先生は、組織の人間だったのか?」
「うーん。難しいところだけど、末端の人間だったしなぁ」

 飄々とした態度を崩さない横田に、新一はため息をつく。過去の事を掘り返すつもりはない。語りたくない過去の一つや二つは誰にだってある。以前彼自身が語ったように、横田にも道を踏み外したという過去がきっとあったのだろう。

「ようやくその新薬も非臨床試験が終わってね。次は人体に対しての実験だ。工藤君、治験に興味はないかい?」

 少しずつ夜明けが遅くなるのを肌で感じる。
 横田はベンチから立ち上がり、ひとしきり手を大きく伸ばした後、新一の肩をぽんと叩いて屋上から出ていった。時間差を置いて新一は頭の中で横田の言葉を反芻する。
 多くの罪を持つ自分を、彼女は生かそうというのか。あなたの未来を作ると彼女は言った。それを本当に叶えようというのか。
 ベンチの背もたれに寄りかかったまま、新一は右手のひらを見つめる。結局、自分は彼女を自由にできないままだ。偽りの姿で一緒にいた頃と、何も変わらないままだ。
 白くなる空には霧がかかり、遠くにある外灯がぼんやりと滲んだ。