6-2

 コーヒーを注文した博士とは対照的に、哀と新一にはオレンジジュースが運ばれてきた。駅ビルの中にある喫茶店で、哀と博士の前に座った新一が、ストローをさしながら、言った。

「博士が元気そうでよかった」

 病院の正面玄関前でいつまでも話し込んでいるわけにもいかず、博士のレンタカーで移動した駅前の喫茶店は、平日の昼間だというのに客で賑わっていた。キャリーケースが通路にいくつか置かれていることから、観光客も多いのだろう。

「君に会うのは……、十年以上ぶりなんじゃな……」

 博士がコーヒーを飲みながらしみじみとつぶやく。

「それより博士。さっきの話だけど、どういう事? 工藤君と連絡を取っていたなんて知らなかったわ」
「灰原。それは俺と博士の話だ、おまえには関係ない」
「工藤君、関係ないかどうかを決めるのは私だし、それをあなたに言われる筋合いはないと思うけれど」

 一種の脅迫じみた視線を新一に向けると、新一がぐっと唇を噛んだ。そういえば彼は入院中に自分を面会謝絶にしたのだと哀は思い出し、なおさら新一の言葉に腹が立ったのも事実だ。

「実はな、哀君……」

 険悪にしか見えない哀と新一に気まずそうにしていた博士が、おずおずと口を開く。博士、と言葉を制するような新一の声を振り切るように、博士が言った。

「実は、哀君の高校からの学費を負担してくれたのは、新一君なんじゃ……」

 喫茶店の雑音の中には、会話を楽しむ人々の声と食器の音が溢れている。そこに混じり込むようにして隣でつぶやかれた言葉に、哀は生唾をごくりと飲み込む。目の前では新一が気まずそうにうつむいた。

「工藤君、本当なの……?」

 哀が通った高校も、今通っている大学も、公立なので莫大な費用ではない。それでも義務教育を終えた後の学校生活にはそれなりに金銭面の負担があった。受験前に哀は博士と話し合い、もう家族なんだから甘えてもいいと言い張った博士に、将来恩返しをしようと思っていた。まさか、自分の知らないところでそんなやり取りがあったなんて気付かなかった。

「なんで俺の周りって、口止めを守らない人達ばっかりなんだろ……」 

 嘆息した新一は、ソファーに座り直して、ストローに口をつけた。

「それは、君が周りを信用していないからじゃろう」

 はっきりとした博士の声に、新一の乾いた笑いだけがテーブルに小さく零れた。



 その後、レンタカーを返却した後で、哀と新一は博士を駅で博士を見送った。

「哀君も新一君も、お願いじゃからくれぐれも無理をせんようにな……」
「わざわざありがとう、博士」

 ショルダーバッグの紐に触れながらうなずいた哀の横で、新一が一歩前に踏み出す。

「博士も、お元気で」

 賑わっている改札の前で、新一の声に博士が顔をしわくちゃにして笑ったようだった。
 博士は現在、一つの発明で忙しい日々を過ごしているという。そんな中で自分の為に新幹線に乗って来てくれたことに、哀は小さな罪悪感を抱く。
 こちらの高校に進学したいと言った時も、姿を消した新一と一緒に暮らすのだと告げた時も、心配を見せながらも博士は反対する事はなかった。いつだって哀の意見を尊重してくれた。そこにどんな真実が眠っていたとしても、博士は静かに受け入れてくれていたのだろう。

「博士」

 駅の改札口の前は、外国人観光客で賑わっている。湿度の高い空気の中、人ごみを掻き分けて行こうとした博士が、哀の声に振り返った。

「歩美は、元気……?」

 哀の声に、隣で新一が哀を見たのが分かった。哀は膨らんだ罪悪感の中にある思い出を手繰り寄せる。セーラー服を着ていた頃は遥か昔だ。哀が関西の高校に進学すると伝えた時、唯一の親友は号泣した。また連絡すると言い聞かせたはずなのに、哀にはできなかった。
 偽りだらけの自分が、彼女に後ろめたさを感じていないわけがない。

「元気じゃよ。連絡してあげたらいい」

 そう言い残した博士は、今度こそ改札の向こうへと去っていった。昔よりも小さな背中が、哀愁を誘う。
 鮮明に中学生の頃の記憶がよみがえり、日本語以外の言語で満たされたこの空間が偽物のようだった。あの頃、自分と同じ制服を着た歩美と一緒に登下校を繰り返していた。新一に会う事もなくなった日々の中で、哀は自分が本物の中学生になれたと思い込もうとしていた。

「帰ろう、灰原」

 新一が哀の手を取る。思ったよりも冷たい手だった。十一月の風が駅構内に吹き込み、足元を冷やす。

「俺達の家に、帰ろう」

 しかし、新一の声が震えているのは寒さのせいではないのだろう。混濁した現実の世界の中で足元がおぼつかなくなる前に、新一に手を繋がれたまま、哀は歩き出す。