4-4

 夜遅くにごめんなさいね、と畳の上に正座した有希子は言った。こんな時間だというのに、有希子の姿に隙はなかった。伝説の女優だと呼ばれるだけのある美貌を久しぶりに間近で感じ、哀は感嘆にも似たため息をつく。
 トレンチコートを脱いでマフラーを外した有希子の首元はやけに細く、彼女の疲労が見えた。

「有希子さん、お久しぶりですね」

 何を飲まれますか、と哀が聞くと、気にしないで、と有希子は微笑んだ。コーヒーを淹れようかと一瞬考えるが、日付を超えたばかりの時間帯にバリスタの音を立てるわけにもいかず、哀はポットでお湯を沸かした。緑茶を淹れて、有希子の前にあるあテーブルへと置く。

「哀ちゃん、大きくなったわね」

 ベッドの前に座る哀を見て、有希子はしみじみと言った。長い髪の毛を一つにまとめた有希子の耳元では、こんな時間にも関わらず完璧に巻かれているこぼれた髪の毛が揺れた。

「ところで、新一は本当に出かけているのね……」

 緑茶をすすりながら、有希子は両肘をテーブルについた。哀は姿勢を正して有希子を見る。午前一時に、彼女がアポもなく突然訪れた理由。長いこと母親には会っていないと新一から聞いた事があった。

「今夜は仕事の関係で、そちらに泊まってくると聞いていますけど……」
「そう、お仕事。新ちゃんも、ちゃんと暮らしているのね」

 母親の瞳を見せた有希子がほっとつぶやいた。新一のスマートフォンはGPSによって管理されていると聞いていた。新一の両親が、新一を放っておくはずがない。ほとんど引きこもって生活をしている新一のスマートフォンが、この部屋以外に長時間置かれていた事に、有希子は慌てて来たのだろう。それもスマートフォンが示す場所ではなく、新一の部屋に訪れたという事は、有希子の中で不吉な予感が働いたのかもしれない。新一には前科がある。
 それにしても、と哀は思う。まさか有希子もこの近辺に住んでいるとは知らなかった。もしかしたら、新一も知らないのかもしれない。

「けど、明日は帰ってくると思いますし、よかったらまた来て頂けたら……」
「そんなわけにはいかない」

 湯呑カップを両手で握りしめ、哀の言葉を遮るように有希子はうつむく。首元にできた皺を見て、美貌衰えない彼女もちゃんと人間だったのだと、こんな時なのに哀は安堵していた。

「あの子に会わせる顔がないわ」

 鼻声になった有希子の瞳から、涙が落ち、テーブルを濡らした。哀は慌てて膝立ちで有希子に寄り、その背中に触れた。想像以上に骨ばった細い体だった。

「どうしてですか」

 哀は訊ねる。有希子にそれを突き付けられると、哀も他人事ではいられない。罪を背負っているのは自分のほうだ。すべての引き金は哀にあったも同然だ。

「だって、あたし……、あの子を責めたもの……」

 とめどなく流れ続ける涙を見て、哀は部屋の端に置いてあるティッシュボックスを取り、有希子に押し付けた。

「あの子の事情を聞こうともせずに、ただ叱って、責めたんだもの……」

 二十三歳の冬頃から二十四歳の夏頃までの事をほとんど覚えていない、と新一は言う。有希子が引きずっている後悔の出来事を、新一は知っているのだろうか。有希子ではなくたって、母親であれば同じ行動をとってしまうかもしれない。母親だからこそ、無茶をした子供に対してきつくあたってしまうのだ。心配のあまりに過ぎたそれは、愛情表現のひとつだった。

「ごめんなさい、有希子さん」

 哀は有希子の細い手首に触れる。有希子はティッシュペーパーで目元を拭いながら、顔をあげた。化粧が滲んでも、彼女は美しかった。

「私がちゃんと……、解毒剤服用後にちゃんと、ずっとケアをしていれば、あんな事にはならなかったのに……」

 仮定を語ればきりがない。それでも、言葉にせずにはいられなかった。
 哀がきちんと新一に連絡を取り続けていれば、新一は忙しいと言いながらもきっと応じてくれただろう。なのに、自分だけが子供の姿に取り残され、新一が本当の日常に戻っていく未来に、哀は耐えられなかった。新一がずっと想っていた幼馴染と幸せになる未来に触れる事すらできなかった。たいしたデータもとらず、もう大丈夫だと根拠のない言葉で、哀は新一を突き放したのだ。
 哀の言葉に、有希子は哀に抱きつくようにして泣いた。消えそうな程、弱々しく震える声で。



 その後、有希子は呼んだタクシーで帰宅した。泊まるように哀が促したが、有希子は首を縦に振らず、真っ赤な目をしたまま錆びた階段をそっと降りていった。
 再び静寂が訪れる。哀はぼんやりと畳の上に座り込んだ。肌寒さを感じ、部屋の端に置きっぱなしにしていたニットカーディガンを被る。これは、去年に新一が買ってくれたものだった。
 この部屋には少しずつ哀の私物が増えている。新一の仕事部屋にある押入れにも、哀の洋服が収納されている。いつの間にか浸食していくように、新一の生活の中に入り込んでいた。

 ――おまえのせいじゃないよ

 新一からはっきりと言葉で示されたのは、去年の夏の事だ。
 哀は分かっていた。確かに新一の中には憎しみが存在していて、それをわざと乱暴なやり方で哀を傷つけていた時もあった。新一にとっての人生の過ちは、決して笑ってやり過ごせない。失恋した事よりも探偵業を辞めた事よりも何よりも、踏み込んではいけなかった領域を作り出してしまったきっかけは、きっと彼自身の健康面にあり、それが思わぬ未来へと導いてしまったのだろう。
 哀は最初から分かっていた。全ての根源は自分にある。だからこそ、恨まれ続けていたかったのに。
 いつからか新一は哀に優しい目を向けるようになっていた。いや、きっとあの夏の日から、それは新一の中にあった。病んだ身体でスーパーに行き、初めて哀に作ってくれた食事の味を、哀は忘れない。狭い畳に置かれたローテーブルの上に並べられた料理を前に、困惑しながらも新一とひとつずつ言葉を交わしていった。それは、哀が高校入学と同時にここに住み始めてからもずっと続いていた時間だ。
 おまえのせいじゃない、という言葉に、哀は絶望を覚えたのだった。憎まれ続ける事で新一との関係を保てると思っていたのに。自分のせいじゃないとしたら、新一と一緒にいる理由を見つけられない。
 テレビ台にある置時計が秒針を刻む。下がり続ける気温のせいで耳たぶが痛くなり、哀はベッドに背を預けたまま膝を抱えた。闇に満ちた夜の片隅。それはいつかの新一の心の中だ。