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 ストックホルム症候群を知っとるか、と服部が言った。翌日の昼休憩の電話での会話だった。

「何が言いたいの?」

 哀は講義室で、広げていた教科書や文房具をトートバッグに片付けながら、スマートフォンを持ち直す。

『そのままの意味やけど』
「仮に私が、洗脳に近い状態で工藤君に恋心を抱いていたとして、それがあなたに何の関係があるの」

 トートバッグを肩にかけて、広い講義室の通路を歩く。思いのほか声が響いていたのか、近くにいた男子学生二人がぎょっとした顔で哀を見たが、気づかないふりをして哀は講義室のドアを開ける。
 哀の言葉に、服部は乾いた笑い声をあげる。

『ははっ、そら姉ちゃんの言う通りやな』
「そんな事より、本題は? 私も暇じゃないのよ」

 服部の声を聞くのは久しぶりだった。昨日、新一が服部との仕事関係で外泊をしているので、大方その話なのだろうか。

『すまんすまん。工藤は午前中にはそっちに帰っていったし、その連絡や』
「……わざわざどうも。掲載されていた小話が一冊の本になるみたいね」
『ずいぶん他人事やなぁ』

 スピーカーの向こう側で、服部は意外そうな声をあげる。

『工藤の書いたもの、読んだことあらへんのか?』

 昼休憩の講義棟の廊下は、相変わらず賑やかだ。窓から差し込む日差しは、穏やかで温かい。

「ないわ。工藤君も嫌がるし」

 哀が答えると、そらそーか、と服部は軽快に笑った。哀はトートバッグを持ち直しながら、研究室へと向かう。

「それより、服部君。前から聞きたかったんだけど」

 そして、以前からずっと気になっていた事を、哀は口にする。

「服部君が警察を辞めたのって、工藤君が原因?」

 渡り廊下を歩き抜けると、少しずつ薬品の匂いが籠り始める。講義棟よりも研究棟のほうが体感温度が低く感じるのは、気のせいだろうか。
 哀の言葉に、服部は喉元で笑ったようだった。笑うことでしか誤魔化せない服部の内面に触れた気がして、哀は口をつぐみ、窓の外を見つめる。キャンパス内に植えられている樹木は、これから葉の色を変えていくのだろう。



 進めている研究を途中でで切り上げた午後九時、哀は足早に帰宅した。

「ただいま……!」

 勢いよく玄関のドアを開けると、すぐ横にあるキッチンに立っていた新一がおかしそうに笑う。

「おかえり。そんなに慌ててどうしたんだ?」

 部屋の中は、空腹感を誘う香りが漂っていた。最近忙しそうだった新一がキッチンに立つ姿を見るのは久しぶりだ。哀はトートバッグを床に置き、上着を脱いだ。鍋に火をかけ始めた新一の横顔を見つめる。

「工藤君」

 思わず固い声色になる。スウェット姿の新一は何事もなさそうに哀を見た。あどけなさを見せつける表情に既視感を覚える。これは、新一の演技だった。

「体調、あまりよくないなら休んでいたほうがいいわ」

 哀が言うと、新一は眉を潜めた後、観念したようにため息をついた。

「さすが、おまえにはフリが通用しないな」

 降参を迫られた犯人のように、両手を耳の横にあげた新一は、素直にリビングのベッドに潜り込んだ。鍋に温めたシチューがあるぜ、とベッドの中から新一が言うので、哀は器を取り出す。新一は夕方に間食したばかりなのでいらないと言う。
 一人分だけよそって、哀はテーブルとベッドの間に座った。こみあげる湯気が冷えた空気に混ざっていく。

「灰原」

 布団から顔を出しただけの新一が、ベッドの前に座る哀の髪の毛に触れる。大きな手のひらが、シチューを食べようとする哀の腕に触れる。
 ――ストックホルム症候群。昼間の服部との電話を思い出し、哀は温かなシチューをごくりと飲み込んだ。コクの効いたそれは、消化器官をじんわりと温めていく。

「……工藤君」

 ニット越しに新一の手のひらの熱を感じ、哀は振り向く。いつもより水分の多い新一の瞳を見て、思わず新一の額に手を当てる。

「あなた、熱があるんじゃない?」

 病状の関係で、新一は解熱鎮痛剤を服用できない。哀が新一の顔を覗き込むと、新一はくしゃりと顔をほころばせた。
 青みがかった瞳が哀を捕らえる。いつから彼はこんな風にまっすぐに自分を見つめるようになっていたのだろう。気づかないふりをしていたのに、熱くなる心臓はもう誤魔化せない。ベッドに横たわったまま、新一は熱い手のひらで哀の頬に触れた。
 きっと他人から見たら、自分たちは異様な関係だ。だけど、哀の気持ちはそんな簡単なものではない。秘めた想いはずっと心の中でくすぶっていた。再会する前からずっと、ずっとだ。新一と一緒にいるための理由を、今も必死に探している。

「灰原……」

 新一のかすれた声が哀を呼ぶ。

「俺は、俺がおまえにした事をずっと忘れていないけれど……」

 シチューの香りが立ち込める空気の中、新一は両手で哀の頬に触れ、顔を上げて唇で哀の唇に触れた。触れるだけの、熱いキスだった。

「それでも、おまえを好きなんだ……」

 声にならない声でつぶやいた後、新一はそのまま咳込んだ。

「工藤君?」

 新一は、枕に伏せるようにして、呼吸の仕方を失ったように咳を続ける。哀は新一の背を撫でながら、その咳が止まるのを待つ。酸素を求めるような呼吸に、何の症状なのか考えているのも束の間、白い枕カバーが赤く染まった。そして、口元にある新一の手のひら、新一の口元が、染まっていく。

「工藤君!?」

 哀は叫ぶようにして新一の顔を覗き込む。新一の口元を真下に向けて、背中を軽く叩きながら、哀は唇を噛みしめる。
 時間差を置いて、新一の言葉の意味を反芻する。憎しみや後悔の中に生まれた感情など、簡単に拭い切れるわけもない。もう戻れない場所にまでやってきてしまった。
 血で濡れた手で畳に置かれたスマートフォンを持ち上げ、哀は救急車を呼んだ。サイレンの音が近くなるまで、新一の荒れた呼吸音が弱々しく響いていた。