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 哀が関わる創薬のチームのメンバーは、ほとんどが大学院生が占めていた。始めの頃は哀の参加に対して訝しげにしていた学生達も、今では協力体制を整えてくれていた。そもそも哀がこの研究室に足を踏み入れたのは五年前なので、当時の学生達の数も半分以下になっていた。
 アポトーシスを引き起こす事での遺伝子細胞の後退と、その可逆反応を引き起こした細胞の免疫系統について、哀は仮説を立てていた。それを元に、ある製薬会社の協賛を受け、研究が続いている。
 哀は白衣と資料をもって、医学部の研究棟へと移動した。動物実験施設内で、哀は対象のマウスの様子を記録していく。

「灰原君」

 しんとした空気の中で名前を呼ばれ、哀が振り向くと、白衣を着た男が立っていた。白髪が目立ってはいるが、決して年老いては見えない、大学病院の血液免疫内科のホープ。

「横田先生、お疲れ様です」
「お疲れ。工藤新一君の調子はどうだい?」

 だらしなく白衣のポケットに両手を入れたまま哀の隣に突っ立った横田は、哀の持つ記録用紙を遠目で覗く。

「それは横田先生のほうがよくご存じでしょう。月に一度は彼を診察しているんですから」
「そうは言うけれど、毎日一緒にいる君のほうが詳しいかと思ってさー」

 横田医師は、仕事関係者に対しても患者に対しても、フランクだ。患者の評判はそれぞれだが、少なくともこの業界の中では名高い医者だった。

「彼からも検査値を時々見せてもらっていますけれど、最近はASTやALTの数値も落ち着いているようですね」
「ああ、君のタイミングは間違っていなかった」

 横田の言うタイミングとは、一年前ほどの事だ。哀の意見もあり、新一の受診診療科が変わった。哀の仮説が正しいかどうかは分からない。それでも、アポトキシン4869の強烈な作用を受けた後で、それを覆すほどの解毒剤を服用した彼の体内で、彼自身の免疫細胞が攻撃を受けていても不思議ではない。時折起こる吐血や全身倦怠感も、それに由来しているのではないだろうか。

「遺伝子細胞の後退、か。面白い薬が存在したものだ」

 哀の観察するマウスが顔をあげ、つぶらな瞳が哀を見つめた。小さな声で鳴くマウスの訴えは、哀には聞こえない。

「自己免疫系統に遺伝子の細胞障害が起こっているのだとしたら、君の仮説はより説得力を増すだろう」

 ――そうだろ、シェリー?
 横田は気だるそうに笑い、背を向けて歩き出した。頭の横で左手をひらひらと振りながら、部屋を出ていく。同時に、ドアが静かに閉まった。
 哀は嘆息し、マウスに目を向ける。マウスはもう、こちらを見てはいない。



 先日新一が言った通り、新一も慌ただしい日々を過ごし始めたようだ。それでも哀はできるだけ新一の体調について関与するようにしていた。
 十月も終わりになると夜は肌寒い。バスに乗って部屋へと帰る途中、アパートの前でばったりと大家でもある女性に出会う。彼女には、新一とは親戚だと話しているが、どこまで信用されているかは分からない。
 玄関の古いドアを開けて部屋へと入る。重たい音を立ててドアが閉まった。先ほどスマートフォンに届いたメールによると、新一は今夜は服部が準備したホテルに泊まるという。同じ関西圏内とは言っても、隣県に位置する服部の会社は近いわけではない。服部の気遣いによるものか、それともたまには男同士で積もる話でもあるのか。新一の体調について気になったが、服部が一緒なら大丈夫だろうと、哀はメールを返信した。
 この部屋に一人でいるのは、不思議だ。無精ひげを生やして引きこもり同然で過ごしていた頃の新一を思うと、今の状況は新一にとってはいい傾向なのだろう。病は気から、ともいうが、きっとその逆もある。
 午後十時。食欲も沸かず、哀はベッドの上へと沈み込む。疲労感は消えない。新一のいない部屋は、冷たさが充満していて、心地が悪い。



 ピンポン、と頼りない音が部屋に響き、哀は目を開けた。不穏な空気に、一気に脳が覚醒し、哀は身構える。枕元に置いていたスマートフォンは午前一時を示している。もう一度チャイムが響いたので、哀は恐る恐るベッドから降りた。玄関のドアの覗き口に近づき、驚愕し、慌ててドアを開けた。

「こんばんは、哀ちゃん」

 そこに立っていたのは、まだ十月なのにすでにマフラーを首に巻き付けた工藤有希子だった。