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 カフェインの香りが鼻腔を刺激する。朝がやって来た事が分かっていても、朝に弱い哀は布団に潜り込むように睡魔の中に引き込まれていく。
 この部屋に住み始めてから、六回目の秋がやって来ていた。

「灰原」

 意識を手放し始めたのも束の間、新一の声によって再び安眠を妨害される。その瞬間を恨めしくも思いながら、哀は心地よさを覚える。

「灰原、そろそろ起きる時間だ」

 寝不足が続く哀を案じているのか、新一の声は優しい。ベッドの端に浅く座った新一が、哀の髪の毛を撫でる。この感触で、哀はようやく目を覚ます。

「……おはよう」
「おはよ。コーヒー飲むだろ?」

 哀がベッドの上で起き上がったのを確認した新一は、再び立ちあがり、キッチンでバリスタからコーヒーをマグカップに注いでいる。東側に位置するキッチンの窓から差し込まれる秋の日差しと新一の後ろ姿を見て、哀は目をこする。途端に鉛のようなものが胃の中に落ちるような感覚に陥った。
 この光景を、この生活を、幸せだと思ってはいけない。



 俺もしばらく忙しくなるかも、と新一は言った。キッチンの前で歯を磨いていた哀は、キッチンの水道水で口をゆすぎ、タオルで口元をぬぐいながら、新一を見る。

「新しいお仕事が入ったの?」

 リビングの畳の上で、壁に寄り掛かるようにして座っていた新一が、肩をすくめた。

「雑誌で掲載してもらっていたものが、本になるみたいでさ」
「そう」

 新一は三十一歳になっていた。服部が編集者として携わっている週刊誌に、新一はコラムを載せてもらっているようだ。ペンネームは、偽名として使用しているこのアパートの部屋の名義と同じ、『江戸川コナン』のローマ字アナグラムだ。

「すごいじゃない。連載が始まってからどのくらい経ったの?」
「えっと……、おまえがこの部屋に住む少し前だったから、もう六年近くになるのかな」

 月に一度の病院通い以外を持て余していた新一を見かねた服部に声をかけられ、細々としたこの仕事を始めたのだと、哀がこの部屋に住み始めた頃に語っていた。リビングの隣にある和室は、新一の仕事部屋でもあり、古い床の底抜けが心配になるほどの大量の本が棚に敷き詰められている。
 新一の書いたものを、哀は読んだ事がない。新一自身が嫌がるというのも理由の一つだが、何より哀は怖かったのだ。全てを捨てるようにして身を潜めて暮らす彼の本質に触れることは、彼の心を暴くと同義であり、哀にとって踏み入れてはいけない領域だった。

「頑張ってね、門野センセ」

 哀が微笑んで見せると、新一が座ったまま哀に手を伸ばした。誘われるように哀はフローリングを歩いて新一に近寄る。腕を引っ張られて抱きしめられる。これは新一にとってのエネルギー補給らしい。まるで恋人のような仕草があったとしても、哀は惑わされない。

「行ってらっしゃい。気を付けて」

 今日の新一は顔色がいいようだ。哀はほっとしながら、新一に軽いキスをし、ずれた眼鏡のフレームを両手で直す。レンズ越しに見つめた瞳の色に、胸が熱くなる。それでも、哀は勘違いしない。

「行ってきます」

 哀はトレンチコートを羽織ってトートバッグを手に持ち、玄関で黒いパンプスを履く。ドアの外には秋の風が爽やかに吹き抜けていった。
 今日の新一の体調がよかったとしても、明日には分からない。哀は忘れていない。今の状況を作り出した原因が自分のせいだと、哀はわきまえているつもりだ。そこに温度の通った日常が横たわっていたとしても。



 哀は大学三年生になっていた。必修科目の受講以外の時間、哀は自ら研究室に籠っていた。
 高校生の頃からこの大学には出入りしていた。はじめは厄介払いされていた哀が、自らの研究の論文をもって免疫学関連の研究室に押しかけ続け、ようやく研究室を使用させてもらってもう五年になる。異例の天才学生だと一部ではもてはやされているが、なんて事はなく、宮野志保として生きてきた功績をそのまま利用しただけだ。この時ばかりはあの組織での研究に感謝したくらいだ。
 午後の実習講義を終えた後、哀は白衣を持って講義棟の廊下を歩く。窓からは柔らかい十月の西日が差し込み始めていた。廊下の端には哀と同じ世代の学生達が集まり、賑やかに話に花を咲かせている。本物の二十歳前後の学生達。哀はあの輪の中には入れない。
 東京にいる親友や家族の事を思い浮かべ、哀は白衣をぎゅっと握って足早に歩いた。